FNSドキュメンタリー大賞
“戦場の県知事”島田叡。
彼のわずか5ヶ月足らずの沖縄での行動が「沖縄の島守」として、戦後多くの県民に慕われ続けているのはなぜなのか?
沖縄戦という地獄の中で、何を思い、県知事としてどのような行動をとったのか?
そしていまだに謎とされている島田叡の最期とは、一体どのようなものだったのか?

第12回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『悲しいほど海は青く〜沖縄戦最後の県知事 島田叡〜』 (制作 沖縄テレビ放送)

<7月8日(火) 26:28〜27:23放送>
 1945年 1月31日。
 アメリカ軍の上陸が間近に迫っていた沖縄に、県知事として赴任してきたひとりの男がいた。待ち受ける運命とは正反対に、美しく青く光る海を越え、沖縄に到着した飛行機。
 空港に降り立ったのは、まだ青年の面影が残る、当時43歳だった
島田叡(しまだあきら)。当時の県知事は国が任命して派遣する「官選知事」だった。
 大阪で内政部長をしていた島田叡は、沖縄知事への就任を要請され、その任を受けた。第二次世界大戦末期の日本の置かれていた状況を考えれば「県知事として沖縄に行ってくれ」という命令は「沖縄で死んでくれ」と言われているのと同じようなものだった。
 家族の反対を彼はこう言って説得したという。

「自分が死にたくないからといって、誰かに『代わりに行って死んでくれ』とは言えない」

 アメリカ軍の上陸が始まり、地獄の戦場と化していく沖縄。降り注ぐ砲弾を避けて暮らす壕の中で、島田知事は少しでも多くの県民の命を救うため、最後まで行政機能を維持しようと奔走した。
 島田知事、そしてともに働き殉職した県庁職員たちの魂は、摩文仁(まぶに)の「島守の塔」に眠っている。
 戦場の県知事、島田叡。彼のわずか5ヶ月足らずの沖縄での行動が「沖縄の島守」として、戦後多くの県民に慕われ続けているのはなぜなのか?
 彼は沖縄戦という地獄の中で、何を思い、県知事としてどのような行動をとったのか?そしていまだに謎とされている島田叡の最期とは、一体どのようなものだったのか?

 7月8日(火)放送の第12回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『悲しいほど海は青く 沖縄戦 最後の県知事 島田叡』(制作 沖縄テレビ)<深夜26:28〜27:23>では、時の狭間に埋もれてしまった島田叡の真実の物語を追いかける。


<番組タイトル> 第12回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『悲しいほど海は青く〜沖縄戦最後の県知事 島田叡〜』
<放送日時> 7月8日(火)深夜26:28〜27:23
<スタッフ> プロデューサー : 山川文樹 (沖縄テレビ放送)
構 成・演 出 : 山里孫存 (沖縄テレビ放送)
撮 影・編 集 : 神山敬三 (沖縄テレビ放送)
ナレーター : 北島角子
        高良茂
        かでかるさとし
        本橋亜希子 (沖縄テレビ放送)
        中安章雄  (沖縄テレビ放送)
        前原 信一 (沖縄テレビ放送)
<制 作> 沖縄テレビ放送


制作意図…構成・演出の沖縄テレビ放送 山里孫存

 昨年9月、沖縄で開催された「兵庫・沖縄 友愛交流30周年」の式典取材が、この番組を制作するきっかけとなった。式典取材の過程でまず頭に浮かんだのは「なぜ、沖縄県と兵庫県なのだろう」という事であった。
 「友愛交流」の歴史的経緯を調べる過程で「島田叡」に出会ったのである。島田叡は、兵庫県の出身で、アメリカ軍上陸のわずか2ヶ月前、沖縄に派遣された最後の官選知事だ。「鉄の暴風雨」とまで表現された激しい戦闘が展開された沖縄で、彼は住民の命を救おうと最後まで知事の職務を全うし、亡くなった。奇跡的に戦禍を逃れ、命を永らえた沖縄の住民たちの間で、島田知事の慰霊の碑を建立する運動が始まったのは戦後間もない頃であった。
 一方、兵庫県でも「島田叡が守ろうとした沖縄のために何かしよう!」ということで、募金活動が始まり、集まった資金で「友愛スポーツセンター」というスポーツ施設が沖縄に造られた。

 取材経験する過程で「島田叡」という人物にスポットをあて、戦後58年という時間に埋もれた歴史を切り取ろうと調査を始めた。沖縄に県知事として赴任した島田叡は「食料調達」や、県内外への「疎開」に奔走し、たくさんの沖縄県民の命を救った人物であるということが浮き彫りになった。

 私の父は、戦争中、熊本に疎開して命を永らえた。「父が疎開していなければ自分は生まれていなかったかも・・」。そんな思いもあり、さらに取材を重ねた。ジャーナリストとして、なるべくニュートラルな姿勢を保つことを念頭に入れつつ「命の恩人」かもしれない「島田叡」という人物の真実の姿を追いかけた。

 酒が好きで、酔うと「テルテル坊主」の歌を唄っていたという島田知事。「明日天気にしておくれ・・」と唄った彼の願いを、今だからこそ、風化させることなく受け継ぎ、語り継いでいかなくてはならないだろう。

 島田知事は、戦場となった島で、どのような行政をしたのか?「鉄の暴風雨」と呼ばれた、降り注ぐ砲弾を避ける「壕」の中で、島田知事を慕い、ぎりぎりまで職務を続けた県庁職員たちの思いとは?

 極限の中でも職務を全うしようとし、死んでいった島田知事だが、戦後58年が過ぎ、沖縄でさえも語られる事が少なくなってきた。

 歴史に埋もれてしまった「島田叡」の “真実”を検証することで、今の時代を生きる人々に、彼が残したメッセージを投げかけたい。
2003年7月4日発行「パブペパNo.03-185」 フジテレビ広報部