2015.10.5
<9月23日(月)25時55分~26時50分>
クラゲに特化した展示では世界一と称される鶴岡市立加茂水族館。その立役者・村上龍男館長(75)の長年の夢だった新館が平成26年6月にリニューアルオープンした。それまでの建物は建設から50年が経ち、外壁のひび割れが目立ち、雨が降れば所々から雨漏りした。また、旧館時代からクラゲ展示種類数世界一を誇っていたとは言え、展示スペースは狭く、工夫とアイデア、情熱と意地だけで運営していた様なものだった。今や、年間70万人が訪れる山形県屈指の観光スポットになったが、市が組織の若返りの方針を打ち出した事を受け、村上館長は平成27年3月に退任する。かつては閉館寸前まで追い込まれ「無くてもいい水族館」とまで言われた施設をV字回復させた村上館長の思いを取材した。
村上さんが館長に就任したのは27歳。鶴岡市が加茂水族館を民間会社に売却したタイミングだった。その民間会社は水族館の運営にはそれ程関心がなく、支援はギリギリ。老朽化が進む施設の補修にもほとんど手を付けられず、村上館長は何とか立て直そうと運営の最前線でもがき苦しんでいた。
入館者の減少が続き資金繰りが厳しい中、アシカやラッコなど、他の水族館で人気があった高価な動物の導入を決断。しかしいずれも他の水族館の真似。独自性もなく、導入する時期も遅かった。入館者の減少は食い止められず、資金繰りもさらに厳しくなった。親会社からのさらなる圧力と押し付けられた借金、職員の生活を守る責任。村上館長は不安から逃れるために、仕事を抜け出して海釣りに出かける事が多くなった。水平線に沈みゆく夕日と閉館の危機にある水族館をなぞらえた。しかし、村上館長は逃げなかった。「俺は釣りの達人。夕日を釣り上げて見せる!」。
閉館を覚悟した平成9年。一条の光が差し込んだ。サンゴの水槽から、小さなクラゲが湧いているのを偶然見つけた。育てて展示してみると、客の反応が大きかった。村上館長は決断した。「クラゲに賭けるしかない!」。クラゲが希望の光となったのだ。
村上館長はクラゲの展示種類を増やすよう指示。世間の目を集めるために、食べられない様なクラゲ料理を作ってはマスコミに発表した。経営が民間から市営に戻ってからは、独断で数千万円の予算をかけてクラゲコーナーの大改装を繰り返した。かつて、他の水族館のまねしか出来なかった村上館長の姿はもうなかった。遂に、村上館長は沈みゆく水族館と重ねた「夕日」を釣り上げたのだ。
クラゲに絡めた企画は全て大当たり。全国のマスコミに取り上げられ、村上館長は“アイデア館長”と称された。自ら「クラゲ館長」と名乗り、「真面目になってもしょうがない。いいかげんに生きようが格言だ」と言い放った。
決して、村上館長は「いいかげん」ではない。もちろん、どん底からのV字回復は、偶然の産物と言う見方もある。しかし、どん底を経験して、そこで出会ったクラゲに全ての希望を託し徹底してアイデアを考え抜いたからこそ、大きなチャンスが舞い込んできた。客の心をつかむために、懸命に勉強したのだ。
「館長・村上龍男」の存在は、日本中の多くの人が知っている。しかし、どのように誕生し、決断のひとコマの裏にはどのような思いが込められているのかは、49年間の館長人生を記した30冊以上に及ぶ日誌やかつての関係者の話、市議会の議事録などからも浮かび上がってくる。
「どん底時代の格闘からV字回復中のイケイケムード、そしてリニューアル以降のPRまで…全ての中心には村上龍男館長がいました。平成27年3月に館長を退任し、本人は49年間の館長人生を“やりきった”と自分に言い聞かせています。しかし、“まだやりたいことはいっぱいある”と後ろ髪をひかれる思いがある事も取材を通して感じました。多くの加茂水族館ファンからは退任を惜しむ声しか聴かれず、専門家も“大胆な運営をできるのは村上さんだけ”と退任を不安視していました。私も、当初はそう思っていました。しかし、村上さんの精神は、苦労を伴にした新館長をはじめとする他の職員に確実に受け継がれています。番組の中心は村上さんの館長時代で退任以降は全く触れていませんが、現場からいろいろなアイデアが出る…活発で楽しい雰囲気は今も残っています。村上さんが築いた加茂水族館が、若い力でどう発展するか、今後も追い続けます」
第24回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『夕日を釣り上げた男
~加茂水族館 クラゲ館長の決断~』
(制作:さくらんぼテレビジョン)
9月23日(月)25時55分~26時50分
2015年10月2日発行「パブペパNo.15-354」 フジテレビ広報部
※掲載情報は発行時のものです。放送日時や出演者等変更になる場合がありますので当日の番組表でご確認ください。