2015.6.22

第24回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『煙幕の下で ~軍都の記憶~』
(制作:テレビ西日本)

長崎に原爆が投下された当日の朝、アメリカ軍の大型爆撃機による空襲に抵抗するために現在の福岡県北九州市で展開された「知られざる行動」があった。兵器工場を抱えた軍都・小倉、そして日本の工業の屋台骨を支えた鉄の街・八幡。原爆投下の「第一目標」とされた街の人々は、どのような思いを抱えてきたのか―「煙幕の下」の真実を探っていく。

<7月15日(水)26時35分~27時30分>


 1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、アメリカ軍は日本に対して2発目の原子爆弾を投下。当時の長崎市の市民24万人のうち約15万人が死傷した。
 原爆の投下目標は当初、福岡県北九州市(旧小倉市)の兵器工場だった。しかし、前日の八幡空襲などが原因で、小倉上空からの視界が悪かったため、アメリカ軍は目的地を長崎に変更したとされている。

 しかし、戦後70年を迎える中、当時、八幡製鉄所に勤めていた元従業員による証言が、にわかに注目されることになった。

「8月9日朝、原爆投下を防ごうとコールタールを燃やして煙幕を張った」

 広島がアメリカ軍の新型爆弾によって壊滅状態になったことを知ったこの男性は、八幡製鉄所が次の標的にされると感じていた。そして8月9日の原爆投下当日、実際に爆撃機は小倉上空に飛来していた。アメリカ軍の新型爆弾から工場と自分たちの身を守るために、男性ら従業員は、製鉄所内に置かれていたドラム缶に薬品を入れて火をつけ、煙幕を張ったという。

 すでに86歳になる男性は、これまで固く口を閉ざしていた。「あの時の行動が長崎の人たちの多大な犠牲につながったのではないか―」その「罪の意識」は、70年に渡って男性の心に暗い影を落とし続けている。

 八幡製鉄所の従業員らが張った煙幕は、実際にどれほどの効果があったのか。そして、煙幕が原因で、原爆投下目標が小倉から長崎に変更された可能性は本当にあるのか―。
 火災学を専門とする大学教授の協力を得てコールタールの燃焼実験を実施した。さらに、1945年8月9日の気象データを基に、当時の気象状況から八幡製鉄所から立ち上った煙幕が、どのように大気中で拡散したのか、気象学の専門家に詳しく分析してもらった。科学者たちが導き出した予測結果はどのようなものだったのか―。

 兵器工場を抱えた軍都・小倉、そして日本の工業の屋台骨を支えた鉄の街・八幡。原爆投下の「第一目標」とされた街の人々は、どのような思いを抱えて今日まで生きてきたのか。戦後70年に渡って歴史に埋もれていた原爆を巡る新証言と、専門家による分析によって「煙幕の下」の真実を探っていく。

岸本貴博ディレクター(テレビ西日本報道局報道部)コメント

「戦争で真っ先に犠牲になるのは弱い立場の人々です。かつて私が暮らしていた沖縄では、民間人も巻き添えにした壮絶な地上戦が展開され、県民の4人に1人が死亡しました。私も遺族の一人です。“勇ましい軍人の話ではなく、弱くはかない市民の物語を伝えたい”制作者として私の根底にあったものは、その思いだけです。戦争が何をもたらすのか。いま現在の問題に対してどのように向き合ったらよいのか。視聴者の皆様に考えていただくきっかけになれば幸いです」


番組概要

◆番組タイトル

第24回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『煙幕の下で ~軍都の記憶~』
(制作:テレビ西日本)

◆放送日時

7月15日(水)26時35分~27時30分

◆スタッフ

プロデューサー
斎藤和也
ディレクター
岸本貴博
撮影
本村博
大石克彦
編集
岡本浩明
藤本結樹
MA
太田雅二
制作
テレビ西日本
ナレーション
児玉育則

2015年6月22日発行「パブペパNo.15-214」 フジテレビ広報部
※掲載情報は発行時のものです。放送日時や出演者等変更になる場合がありますので当日の番組表でご確認ください。