2011.10.13

第20回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
3.11 あの時、情報は届かなかった
(制作:フジテレビ

東日本大震災の直後に発生した福島第一原子力発電所事故。
事故後、政府の避難指示が伝わらず、周辺自治体で実に数万にものぼる住民が無用な被ばくを受けたのだ。あの時、なぜ、国民の生命と安全にかかわる最も重要な情報は、届かなかったのか。国の中枢は、万全の措置を講じたのか。
東京・福島の当事者の証言、膨大な記録映像、内部資料をもとに、“何が情報伝達を阻んだのか”検証する。

<2011年10月16日(日)14時~14時55分>


 2011年3月11日午後2時46分。マグニチュード9.0の東日本大震災が日本を襲った。甚大な被害は、地震と津波にとどまらない。その直後に発生した原子力発電所事故は、目に見えない放射能の恐怖を人々にまざまざと突き付けた。それは、これまでこの国が経験したことのない「危機」であった…。

 さかのぼること12年前、東海村JCO臨界事故を受け、制定された法律がある。「原子力災害に対する対策の強化を図り、もって原子力災害から国民の生命、身体及び財産を保護することを目的とする。」(原子力災害対策特別措置法)未曽有の被害をもたらした今回の大震災。だが、国が定めた法律は、無力だった。あの時、この国の中枢は、国民の生命、身体の保護に、万全の措置を講じたのだろうか? 第20回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『3.11 あの時、情報は届かなかった』(制作:フジテレビ)は、政府の原発事故対応の中でも、特に“国民への情報伝達”に焦点を絞り、検証したドキュメンタリーである。

 震災発生後、高さ15メートルにも達する大津波の到来によって、福島第一原子力発電所は、全交流電源喪失を余儀なくされた。国も東電も全く想定していない最悪の事態。冷却できないまま炉が危険な状態に陥っても、国と東電は手をこまねくばかりだった…。

 3月11日から12日にかけて、住民の避難指示は3キロから10キロへと拡大する。だが、周辺自治体に、その情報は届いてはいなかった。町役場が原発から8.6キロの位置にある浪江町。東電と浪江町は今から13 年前より原発事故に関する、ある協定を結んでいた。
「東電は、事故が発生したときは、直ちに浪江町に伝えること」
 しかし今回、東電から一切連絡が来ることはなかった。しかも、馬場有町長は原発から半径10キロの避難指示をテレビで初めて知ることになる。
 そのころ、津波で流された地区では懸命な救助活動が夜を徹して行われていた。夜も明けて捜索を本格化させようとしていた矢先、町長は引き裂かれるような思いで、一斉避難を決める。そして、震災翌日の12日15時36分、1号機爆発。その瞬間、原発からわずか4キロの双葉厚生病院では、ヘリによる重篤患者の搬送を準備中だった。やがて、空から白い綿のようなものが降ってくる。建屋の破片だった。目に見えぬ放射能…誰もが、言いしれぬ恐怖にせき立てられていた。

 実は、原発事故による危機的状況が生じた場合に、周辺自治体への情報伝達の重要拠点として機能するはずだった施設がある。原発から5キロの距離にある「オフサイトセンター」。1999年9月、茨城・東海村JCO臨界事故を受け、308億円の巨額の費用をつぎ込んで全国の原発周辺に作られた。情報収集のための最新機器をそろえ、本来であれば国や各自治体、電力会社などの関係機関が集結、対策を協議し住民の避難・誘導までを行う「司令塔」のはずだった。 しかし、今回の事故では非常用電源も落ち、外部との通信手段も絶たれた…。
 機能しなかった国の切り札は、これだけではない。128億円を投じて開発された緊急時迅速放射能影響予測システム「SPEEDI」。事故から5日目の15日朝、2号機、原子炉格納容器の圧力抑制室が破損、多量の放射線物質がまき散らされた。放出された放射性物質は、北西に向かう風に流され、あっという間に国が指示した避難区域を超える。原発から北西へ、帯状の高濃度汚染区域が生まれてしまった。実は、北西部に流れた放射性物質の動きは、「SPEEDI」によってほぼ正確に予測されていた。巨大津波発生の1時間後にはシステムが作動、汚染の広がり方は1時間ごとに予測されていたのである。しかし、この重大な情報もまた、国から住民へは届かなかった。そして、北西方向に逃げた多数の住民たちは、避難先で放射線を浴びてしまう。

 なにもかもが想定を超えて起きた原発事故。官邸から地元自治体への連絡系統はまひし、危機対応は混迷を極めた。国は、原発が爆発してもメルトダウンを起こしても、事故を過小評価し、国民に「ただちに健康への影響はない」と伝え続けた。しかも東京電力は、水面下で原発からの撤退を申し入れていたという。

 福島第一原子力発電所が、国の中枢に向けて送り続けたファクス、720枚。5000時間を超える膨大な取材テープ、入手した無数の内部文書や報告書、それらを再検証したとき、見えてきた真実…なぜ、住民の避難は遅れたのか。なぜ、深刻な状況が長引いたのか。あの時、情報は届かなかった。何が起きていたかを…私たちは、記憶にとどめなければならない。同じ過ちを、決して繰り返さないために。

高橋龍平ディレクターコメント

「未曽有の大震災が引き起こした原発事故。あの時、この国の中枢は、どのような対応を取ったのか? そして、福島で何が起きたのか? “記憶”が薄れる前に、関係者一人一人に話を聞き、“記録”としてとどめなければならない…。メディアに関わるものの責務として、誰かがやらねばという思いで、取材を続けてきました。その結果、次第に見えてきたことがありました。それは、番組タイトルに全て集約されています。“あの時、情報は届かなかった。”
 国民の生命と安全に関わる最も重要な情報が、情報をもっとも必要としていた福島の人々に届いていなかったのです。では、なぜ情報が届かなかったのか。そして、事故から何を教訓としなければならないのか…。ただ国に拳を振り上げるのではなく、私たち一人一人が、自分自身の問題として捉え、まずは正しく記憶にとどめおく必要があるのではないでしょうか? この番組が、その材料の一つになれば幸いです。」


<番組概要>

◆番組タイトル

第20回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『3.11 あの時、情報は届かなかった』
(制作:フジテレビ)

◆放送日時

2011年10月16日(日)14時~14時55分

◆スタッフ

ディレクター
高橋龍平
プロデューサー
宗像 孝
統括
堤 康一
語り
大杉 漣
構成
田代 裕
撮影
須田眞一郎(共同テレビ)
大津 豊(共同テレビ)
山本光明(共同テレビ)
VE
赤松比呂志(共同テレビ)
石下忠由(共同テレビ)
金子英樹(共同テレビ)
森 麻琴(共同テレビ)
編集
松月志高(テレモーションマックス)
音響効果
原田慎也(メディアハウス・サウンドデザイン)
アシスタントディレクター
宇野剛史
齊藤崇晃
デスク
伊藤ひろみ

2011年10月12日発行「パブペパNo.11-252」 フジテレビ広報部
※掲載情報は発行時のものです。放送日時や出演者等変更になる場合がありますので当日の番組表でご確認ください。