2008.11.20

第17回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『負ケテタマルカ!!―画用紙に描いた命の記録―』
(制作:鹿児島テレビ)

鹿児島市立病院内に病気の子どもたちが通う学校がある。2年前、1人の少年と出会った。本田紘輝君(当時10)。紘輝君は7歳の時、「脳腫瘍」を発病し、以来、常に生死と隣り合わせで生きてきた。そんな絶望の彼を救ったのが絵だった。画用紙に彩られていくカラフルな色は紘輝君の“生きたいと願う望み”が込められていた。“負ケテタマルカ!!”その思いで、絵を描き闘い続けた紘輝君の2年間の記録。

<2008年11月22日(土)深夜2時35分〜3時30分放送>


“生きる”って何だろう?、“本当の幸せ”って何だろう?
少年が描き続けた画用紙の絵には、その答えが隠されている。

 鹿児島市立病院の中に病気で学校に行けない子供たちが通う一つの学校がある。院内学級―この教室で本田紘輝君(当時10歳)と出会ったのは今から2年前の2006年、春のことだった。恥ずかしがり屋で自分の内面は他人には絶対に見せない。しかし、その彼が唯一、自分の素直な気持ちを表すものがあった。
 それは、“絵”。私たちとの出会いのきっかけも1枚の絵だった。
 削られた頭に目からは緑色の涙―それでも手にはピストルと剣を持って悪魔と闘っていた。【あくま】と名付けられたその絵は紘輝君が自分自身を描いたものだった。実は紘輝君は7歳の時に170万人に一人と言われる「脳腫瘍(髄芽腫)」に侵されていた。死と隣り合わせで生きてきた紘輝君にとって、絵を描くことは、生きる望みだった。

 “余命半年”といわれた紘輝君と家族にとって、病との闘いは壮絶を極めた。長期の抗がん剤治療に放射線治療、体も心も限界にきていたが、それでも紘輝君はベッドの上で描き続けた。
 紘輝君にとって何よりも大切な人【ママ】。“強くなりたい”その思いをドラゴンに込めた【炎のリュウ】。“早く病気が良くなりますように…”【いのり】にはそんな願いを。赤や青、緑にピンク、原色が塗り込められたその絵には少年の心の内が描かれていた。

 2007年夏、12歳の誕生日を迎えた紘輝君はカメラの前でこうつぶやいた。「人生は終わった後、どうなるんだろう―」
 この日を境に紘輝君のがんはさらに進行していく。
 2007年秋、病室では震える手でそれでも絵筆を握って描き続ける紘輝君の姿があった。描いたのは強くて負けないドラゴン。目と心臓に真っ赤な色を塗った紘輝君はこの絵を最後に「疲れた」と言って、絵筆を置いた。この直後から病気との闘いは最終ラウンドに入り、親子は互いを懸命に支えあいながら死の恐怖と立ち向かう。そして、2007年12月28日、紘輝君はお母さんの胸に抱かれて、病との闘いを終えた。

 紘輝君が描いた絵の中でひときわ、ギラギラ輝き、強烈なメッセージを放つ1枚の絵がある。その絵のタイトルは紘輝君がいつも励みにしていた言葉だ。
 【負ケテタマルカ!!】絶望の向こうにはきっと「希望」がある。

 紘輝君が遺した絵には12年間の人生を全力で生き抜いた少年の“熱いエール”が込められている。

【四元良隆ディレクターのコメント】

 その絵を見るだけで心が大きく揺さぶられました。そして、何とも言えない感動を覚えました。紘輝君の絵には人生で大切なものが描かれています。時には絶望で明日が見えなくなったり、時には涙を流すくらいの悔しい日々があったり、時には何でもないことが喜びに感じたり…。人生で体験する出来事にはすべて意味があり、そのこと自体が生きていることなんだっていうことを、私たちに教えてくれてたような気がします。
 取材を始める時、紘輝君のお母さんはこう話しました。「紘輝の全てを撮影してほしい。息子の頑張る姿がみんなの希望になってほしい―」

 人生には限りがある。だからこそ、今を大切に生きる―この番組を見たすべての人たちがその瞬間から、“負ケテタマルカ!!”って気持ちで明日をしっかりと生きてほしい…、きっと天国でドラゴンに乗りながら、紘輝君もそう願っていると信じています。


<番組概要>

◆番組タイトル

第17回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『負ケテタマルカ!!―画用紙に描いた命の記録―』

◆放送日時

2008年11月22日(土)深夜2時35分〜3時30分

◆スタッフ

ナレーター
薬師丸ひろ子
音楽
吉俣 良
撮影
西村智仁
鈴木哉雄
音効
万善弘美
ディレクター、構成、編集
四元良隆
プロデューサー
増留三朗
堂脇 悟

2008年11月20日発行「パブペパNo.08-328」 フジテレビ広報部
※掲載情報は発行時のものです。放送日時や出演者等変更になる場合がありますので当日の番組表でご確認ください。