FNSドキュメンタリー大賞
太平洋戦争中、旧日本陸軍により建設されたタイ西部を走る泰緬(たいめん)鉄道。
建設には10万人以上の捕虜が犠牲となった。
日本にとっては「負の遺産」といえるこの鉄道を、
戦後60年が経った今、世界遺産に登録しようと活動している元通訳兵がいる。
永瀬隆さん(88歳)の姿を通し、歴史を正しく伝えることの大切さを考える。

第15回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品

『運命の旅路〜元通訳兵の戦後〜』

(岡山放送)

<8月20日(日)深夜2時55分〜3時50分放送>

 8月20日(日)深夜2時55分〜3時50分放送第15回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『運命の旅路〜元通訳兵の戦後〜』(制作:岡山放送)は、太平洋戦争中、旧日本軍がビルマ前線への物資補給路としてタイに建設した泰緬(たいめん)鉄道を、戦後60年が経った今、世界遺産に登録しようと活動する元通訳兵の永瀬隆さん(88歳)の姿を通し、歴史を正しく伝えることの大切さを描く。

<企画概要>

 岡山県倉敷市に住む永瀬隆さん(88歳)。昭和18年9月、泰緬鉄道の建設拠点であるタイ・カンチャナブリの部隊に通訳兵として配属された。泰緬鉄道は、太平洋戦争中、旧日本軍がビルマ前線への物資補給路として建設した総延長415キロの鉄道。1年3ヵ月の突貫工事で、連合軍捕虜ら10万人以上が犠牲になった。戦後60年が経った今、日本にとっては「負の遺産」といえる泰緬鉄道を世界遺産に登録しようと、永瀬さんは活動を開始する。彼の姿を通し、歴史を正しく伝えることの大切さを考える。

<番組内容>

 タイ西部を走る泰緬(たいめん)鉄道。太平洋戦争中、旧日本陸軍がビルマ前線への物資補給路として建設した鉄道で、総延長は415キロ。新幹線でいうと神戸―静岡間に匹敵する長さだ。大本営の指令の下、1年3ヵ月の突貫工事で、イギリスやオーストラリア軍の捕虜ら10万人以上が犠牲になった。泰緬鉄道はアカデミー賞受賞映画『戦場にかける橋』のモデルにもなっている。
 岡山県倉敷市に住む永瀬隆さん(88歳)は、今、この泰緬鉄道の世界遺産登録を求める活動を行っている。日本にとってはいわば「負の遺産」といえる鉄道を、なぜ世界遺産登録しようとするのか…。
 大正7年生まれの永瀬さんは、青山学院大学英語科に在学中、旧日本陸軍に志願。昭和18年9月に、タイのカンチャナブリ憲兵分隊に通訳兵として配属された。その時は泰緬鉄道が開通する1ヵ月前。すでに1万人もの捕虜は遺体となって埋葬されていた。戦争と泰緬鉄道の真実を永瀬さんが知ることになるのは終戦直後のあることがきっかけだった。

 泰緬鉄道の建設拠点、タイ西部のカンチャナブリ県のワンポー駅は切り立った断崖が続き、建設工事でも難所のひとつであった。今は映画のヒットもあり、一大観光地となっている。しかし、日本人の姿は少なく、イギリス人やオーストラリア人観光客が目立つ。彼らの方が教科書や本がたくさん出ておりよく知っているのだ。日本人で泰緬鉄道の真実を知っている人は一体何人いるのだろうか…。
 防衛庁防衛研究所の資料を見ると、泰緬鉄道建設に従事した連合軍捕虜は6万1800人。そのうち7割が病に倒れ、1万2000人以上が死亡したと言われている。病気で多いのはマラリアと熱帯性の潰瘍。当時のイギリス兵のひとりが残した記録によると、捕虜たちは収容所の中で、激しい苦痛にのたうち回っていたという。収容所内で捕虜たちの「思想動向」を探る仕事をしていた永瀬さんも何度か捕虜収容所の惨状を目の当たりにしていた。しかし、永瀬さんは「捕虜になったらこういうひどい目に遭わされるから、戦争に勝たなければならないと自分に言い聞かせていた」という。その考え方には、彼が受けてきた軍隊教育が影響しているのだ。
 永瀬さんの人生を大きく変えたのは終戦後の運命的な3週間だった。泰緬鉄道沿いに転々と埋められていた連合軍捕虜の遺体発掘調査を連合軍から依頼された永瀬さんは、朝から晩まで作業を続け、連合軍将兵と一緒に、220カ所の埋葬場所を探り当てて遺体を掘り返した。永瀬さんは捕虜の遺体がそれぞれ一斗缶を抱いているのに気付く。その中のメモには当時の日本軍の隊長、捕虜係の名前とともに死因が詳しく書かれていた。それを元に、捕虜に対して残虐行為を行った旧日本軍将兵は戦後の戦犯裁判で次々に裁かれていったのだ。戦争時の捕虜虐待を禁じたジュネーブ国際協定が交わされたのは、太平洋戦争が始まる12年前。しかし、日本政府はこの協定を「準用する」という曖昧な立場をとり、日本兵に協定の存在を教育することもほとんどなかった。
 日本軍に対する失望。何も信じられなくなっていた永瀬さんに、一筋の光が差したのは終戦から1年ほど経った頃だった。永瀬さんに法律論・責任論を超えたひとつの信念が芽生えたのだ。永瀬さんは私財を投げ打ってカンチャナブリに小さなお寺を建立。これまで120回以上タイを訪れ、異国の地に散った捕虜たちの霊を慰めている。永瀬さんの発言や行動に不快感を抱く元日本兵や日本人も少なくないが、ひとりの日本人として亡くなった人たちに謝罪したいと永瀬さんは言う。
 その人生が、まさに泰緬鉄道に導かれてきた旅路であるといえる永瀬さんも今年88歳。泰緬鉄道の世界遺産登録を、歴史を語り継ぐ活動の集大成と位置付けているのである。永瀬さんの姿を通し、戦争の悲惨さだけでなく、歴史を正しく伝える大切さを描いていく。

<ディレクター・白井大輔コメント>

 この人は本当に今年88歳になろうという人なのか…何度そう思ったことでしょうか。一言では言い表せないバイタリティーに満ちあふれているのです。まだ若いはずの自分自身が情けなくなるくらいです。そんな永瀬さんは「私は泰緬鉄道の後始末をするために生まれてきた」と口癖のように言います。初めは「大げさなことを言う人だな」と思っていましたが、取材を重ねていくうちに、永瀬さんは戦後、ひとつの揺るぎない信念を抱き続けていることに気付きました。まさに、その人生が泰緬鉄道に導かれてきた旅路だったのです。悲惨な戦争体験を通じて、歴史を正しく伝えることの大切さを永瀬さんは教えてくれました。しかし、永瀬さんは人として生きるためのもっと大切なことを教えてくれているのではないか、私はそう思っています。


<番組概要>

 ◆番組タイトル 第15回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『運命の旅路〜元通訳兵の戦後〜』
 ◆放送日時 2006年8月20日(日)深夜2時55分〜3時50分放送
 ◆スタッフ
プロデューサー 松元範夫
ディレクター 白井大輔
構成 高橋 修
ナレーター 屋良有作
撮影・編集 山崎 誠
制作 岡山放送

2006年8月14日発行「パブペパNo.06-261」 フジテレビ広報部