FNSドキュメンタリー大賞
朝鮮王朝末期の政治家・朴泳孝(パギョンヒョ)の足跡を山陰と韓国に訪ね、
韓国ブームや韓国の日本文化開放といった新しい時代にふさわしい日韓交流の姿を探る。

第13回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『新たなる交流を求めて〜非業の政治家・朴泳孝〜』
(制作:山陰中央テレビ)


<11月28日(日)3時30分〜4時25分放送>
【11月27日(土)27時30分〜28時25分放送】






 朝鮮王朝末期の政治家・朴泳孝(パギョンヒョ)。韓国国旗・大極旗の考案者とされ、朝鮮半島の近代化を目指した開化派の政治家だ。その朴泳孝のしたためた書が鳥取県米子市でみつかり、県は新たな交流の証として足取り調査を開始する。ところが韓国内で朴泳孝は日本の侵略に力を貸した政治家としての悪評がつきまとっていた。
 
11月28日(日)放送の第13回FNSドキュメンタリー大賞『新たなる交流を求めて〜非業の政治家・朴泳孝〜』(山陰中央テレビ)<3時30分〜4時25分>では、朴泳孝の足跡を山陰と韓国に訪ね、韓国ブームや韓国の日本文化開放といった新しい時代にふさわしい日韓交流の姿を探る。

【プロローグ】
 近くて遠い国、韓国。戦前の日本統治を境に糸がもつれ合い、戦後を通じてさまざまな軋轢(あつれき)を生んできた。
 その一方で、21世紀を迎えた今、日本は、韓流−空前の韓国ブームに沸いている。書店には韓国トップスターの紹介雑誌が並び、映画館では韓国映画がロングランを重ねる。日本から韓国への旅行者はうなぎのぼりだ。
 そんな韓流も何もなかった今から100年前。日本が朝鮮半島を植民地とする少し前、山陰地方に1人の朝鮮の政治家が訪れていた。

朴泳孝(パ・ギョンヒョ)。

 朝鮮王族の娘婿で、韓国の国旗、大極旗の考案者とされる。一方で、朝鮮の近代化を目的に起したクーデターを失敗するなどして日本に二度、亡命。日韓併合後は貴族院議員を務めた大物政治家である。
 その朴泳孝のしたためた書が、鳥取県米子市の民家で発見された。

「水澤魚龍国 山林鳥獣家 孤舟明月夜 何処定生涯」(水は魚龍の国 山林は鳥獣の家 月の夜、私の生涯はどこに定めようか)

 この書をしたためたとき朴泳孝は、母国朝鮮の改革の夢破れ、日本で亡命生活を送っていた。書が見つかった鳥取県は、この書を韓国と山陰をつなぐ縁(ゆかり)として、新たな日韓交流の足がかりにできないかと朴泳孝の山陰での足跡調査を開始した。

【「親日派」朴泳孝】
 朴泳孝の調査を行う鳥取県は、10年前から韓国・江原道(カンウォンド)と交流を進めている。行政だけでなく民間レベル、子供同士の交流も盛んで、日韓交流のモデル的地域ともいわれている。韓国の国際交流員は11人おり、これは日本全体の2割を占めるほどだ。
 そんな日韓交流の中でも両者が触れないでいるところがあった。交流活動を積極的に行っている模範的な若者でさえ躊躇してしまう問題。それは日韓の歴史認識についてだ。これは交流事業そのものが越えないといけない、しかし、高いハードルだ。
 そこに目を向けたのが鳥取県の片山善博知事だった。韓国通でもある片山知事は、朝鮮半島の近代化を進めようとした朴泳孝を通して日韓の歴史をお互いが再認識し、日韓交流の新たなステップにしようと考えたのだ。
 ところが、朴泳孝は、韓国内で日本の侵略政策に協力した「親日派」=「売国奴」の巨頭というレッテルが貼られていた。こうした中、韓国では2004年3月、戦前の指導者層らの親日的な行為を調査し、歴史に残す「親日反民族行為特別法」が成立。鳥取県にいる韓国の国際交流員からは「鳥取県が交流事業としてこの調査を行えば親日派を擁護していると韓国内で誤解を与えるのではないか」と危惧する声が噴出した。朴泳孝は、韓国では友好とは程遠い歴史的評価を下された人物だった。
 その一方で、朴泳孝について少し違った見方をする人が神戸にいた。金慶海(キム・キョンヘ)さんは、在日コリアン2世で、朝鮮高校の歴史教諭を退職後、朴泳孝の足跡を調べている数少ない専門家だ。金さんは過去の歴史を直視しない日本の政治家に憤りを感じる一方で、朴泳孝の評価を親日派として片付けてしまうのも短絡的ではないかと感じていた。

【革命家か親日派か】
 朴泳孝は、1884年、明治維新をモデルにクーデターを起したが失敗し日本に亡命。その後、日清戦争に勝利した日本の後押しで朝鮮王朝の大臣に就任し、朝鮮半島の支配を強めようとする日本と、ロシアの庇護を受けようとする王朝内の勢力とのはざまで、朝鮮の独立を目指し改革を進めた。しかし、改革は頓挫し再び日本に亡命した。日韓併合後は爵位を受け、貴族院の議員も務めた。
 金さんによると朴泳孝は亡命中、朝鮮の若者のため神戸に塾を開いていた。それもこれも朝鮮王朝の改革、独立のための活動だった。朴泳孝は、その経営のため刺客から命を狙われながらも全国を行脚して寄付金を集め、高額の寄付をした人には揮毫(きごう)の書を贈っていたという。
 金さんが以前、偶然見つけていた1903年発行の大阪の新聞記事。そこには、朴泳孝の書が見つかった鳥取と同じ山陰地方の島根県松江市に来ていたと書かれていた。これをもとに金さんら調査団は山陰地方で調査を開始した。そこでは、朝鮮半島の侵略を進めようとしていた当時の日本政府とは対照的に朴泳孝と地元の人々との交流の様子がうかがわれた。
 そして、調査団は韓国へ。そこには、当初この調査に懸念を示していた国際交流員のひとり、鄭(チョン)ロアさんの姿もあった。母国の歴史の一端を、日韓交流に関わっている立場で、これまでとはまた違った視点で確かめてみたかったのだ。

「歴史の歯車が一つ違えば私たち子孫の歩んだ道もまた違ったものになったに違いない」

 韓国で出会った朴泳孝の子孫の言葉。さらに朴泳孝の墓地跡の調査などから朴泳孝とその一族が歴史に翻弄された姿が垣間見える。
 番組では日本と韓国の近代史の一部をひもとき、日本での韓国ブーム、韓国での日本文化開放といった新しい時代の交流とは何か、その姿を探る。

<澤田陽ディレクターの話>
 『韓国で親日派は売国奴の意味である』。日韓共催のワールドカップサッカーや韓国ブームなど日韓友好が急速に進んでいると感じていた私にとって、このような言葉がいまだに存在していることは、少しショッキングでした。一方で、私たち日本人は日本と朝鮮半島の特に近代史について韓国人と話すのを躊躇してしまうのが現実です。
 この取材を通し、人物の業績や歴史の評価はさまざまであり、最も大切なのは歴史の事実と向き合うことだと感じました。
 番組で紹介した歴史はそのほんの一部分ですが、朴泳孝という人の足跡を通じ、誠実に日韓の意見交換ができれば、歴史問題についても徐々にわだかまりが解けていくのではないか、番組がこの問題を解決するささやかなきっかけになればと思います。




<プロデューサー> 昌子成人(山陰中央テレビ)
<ディレクター> 澤田 陽(山陰中央テレビ)
<編集> 古川 淳(山陰中央テレビ)
<撮影> 杉谷俊洋(P・S・T)
<MA> 宮地 亨(ギャラック・レイ)
<ナレーション> 野口厚司
<制作> 山陰中央テレビ

2004年11月9日発行「パブペパNo.04-353」 フジテレビ広報部

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