取り立てて何の感動もなかったが,特に格好良いとも,アヴァンギャルドだとも思わなかった.すべて過去にあったものだ…….もっと言うならば,」それは自分の大好きなアーティストの曲に合わせてジャムるというギターを弾く人間にとってはごくごく当たり前の光景を客前に晒しただけのものだった.客前に晒した音楽が彼らの中で消化し切れていない以上,それはただのBGMにすぎない.例えば,TOKYO No.1 SOUL SET.彼らは見事に消化している.それはただ単にVOのBIKKEが元ネタを知らないだけなのかもしれない.だけどソウルセットの演る音楽はあくまでもソウルセットの音楽だ!「悪魔よりももっと高く」飛ぼうとする彼らは元ネタさえも超えている.大好きな大好きなアーティストの曲に合わせてジャムってる小僧とは全く訳が違う.ソウルセットは,元ネタを一つの楽器としてとらえている.ソウルセットにとって元ネタである曲,DJの川辺ヒロシがチョイスしてきた音楽は一つの伴奏なんだ.
「○○っぽい」連中にはいつも飽き飽きする.あるアーティストが一つの地位を占めるとその後にはびこる「○○っぽい」人たち.例えばそれがビート・ジェネレーションやパンクやもっと古くはヒッピーミュージックなどの一つのシーンになりうるパワーを持つものであればそれはそれで大OK!だけど,そのパワーを持ちようもない貧困なる精神の元に生まれた一連の「○○っぽい」人たちにはうんざりだ.あえて,はっきり言ってしまうならば芸能界的な精神の元に生まれた一連の「○○っぽい」人たちだ.テレビというメディアの中で音楽産業,商業音楽に携わる身として,こういうことを言ってしまっては身もふたもないのだが,本当にそう思う!
「新しく」「格好よい」音楽を演ってる連中が同じイベントやら何やらで一緒にやって,気があったのかどうかはともかく,互いの音楽を認め合い,それが一つの「うねり」となり,世間でも「渋谷系」と呼ばれ,それがメディアでもてはやされ,「シーン」という名の地位を築くと,必ずそこには,商業的な追随者が現れる.去年の後半,「ピチカートもどき」なグループ,「カヒミもどき」な女の子たちが多く世に出たけど,その中のどの人たちにも魅力を感じなかった.その昔,「ローリングストーンズもどき」なミュージシャンが多く世に出たけど,ストーンズなら本物を聞いていればそれでよかった.ロカビリーは大好きだけど,96年の今,ロカビリーをそのまま演ってる連中には微塵も魅力を感じない.たぶん1955年においてのロカビリーは今の「ネオ・モッズ」だったり,日本の「渋谷系」の1000倍「新しく」「格好よかった」はずだから……
ごく個人的に言うなら,「新しく」なきゃいやだ.同じなら本物を聴けばいいわけだし,ジミヘン大好きだけど,ジミヘンと同じくらい引ける,ただの「ジミヘンもどき」はいやだし.聴かなくてOK!そんなものよりは1969年のジミヘンと同じ「パッション」を持っている全く違った音を奏でるアーティストの曲を聴く.
全ては初期衝動だ.
それこそが真実だし,最近よく思うのは,初期衝動という得体の知れないものこそがストリート(ケッ!ダッセー)の在りかなんじゃないかなと思う.ストリートなんて日本にはないし,おそらくアメリカにもイギリスにもない.「パンク」にしたって道端で奏でていたワケじゃないし,「ラップ」にしたってGETTOから出てきたものでもなんでもない.ただGETTOを唄っているだけだ.メッセージソング(本来の意味での)はある種,「ストリート」なのかもしれない.だけど,それってメチャメチャ胡散臭い.またひとつ利口になった.
【1997.02.10 from POCCA】