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| 笑顔を失った女性アスリート |
昨年北京で開かれた第29回夏季オリンピック。
世界各国から選び抜かれたアスリートが一同に会し、様々な競技で私たちに感動を与えてくれたことは記憶に新しい。
この華やかな舞台に立つことを誰よりも夢見ていた一人の日本人選手がいた。
これは、母と娘が二人三脚で歩んだ壮絶な夢への軌跡である。1983年に産まれた石黒由美子さんは、幼い頃からバレエや水泳など様々なことに挑戦し、どんな場面でも物怖じすることなく天使のような笑顔を振りまいた。 彼女が幼い頃から書いていたのが、『夢ノート』。 叶えたい夢や目標をノートに綴っていた。 この夢ノートに書かれているように少女には輝かしい未来が訪れると誰もが信じていた。 あの悪夢の瞬間までは。。。 |
由美子さんが小学校2年生の時のことだった。
バレエの帰り道で迎えにきた母の車に乗り込んだその時、車が突っ込んできた!
シートベルトをつける前だった由美子さんは、衝撃でフロントガラスに頭から突き刺さってしまった。手術は7時間にもおよんだ。 かろうじて命は取り留めたのだが、由美子さんの怪我は顔面骨折、眼球打撲、網膜剥離、手足の骨折に加え、右の頬が耳までパックリ裂けていた。 顔だけでなんと540針も縫うほどの大手術だった。 しかも、顔面の神経がズタズタになっているため、笑うことなど、顔の表情を作ることができなくなるかもしれないというのだ!! すぐに由美子さんの意識は回復したのだが、事故による網膜剥離の影響でほとんど目が見えなくなっていた。 さらに、耳もよく聞こえない状況だった。 2週間後、わずかに視力と聴力が戻り始めたのだが、顔には無惨にも大きな傷が残り、右目は閉じることができなくなっていた。 だが、由美子さんは沈むことなく、自分よりも具合の悪い患者を励まし続けていたという。 |
実は彼女は、辛い入院生活の中で、ある目標を見つけていた。
それは、シンクロナイズドスイミング。
バレエと水泳を続けてきた彼女にとって、華やかな踊りと競泳を組み合わせたシンクロはまさに理想的なスポーツだった。
早く退院してシンクロをやりたい、その夢への情熱は由美子さんの体を驚異的なスピードで回復させていった。そして事故から半年後、由美子さんは退院。 念願叶い、名古屋市内にあるシンクロクラブに入会することが出来たのである。 だが、そこに立ちはだかったのは、事故による大きな後遺症だった。 網膜剥離の状態で視力は極端低下、視野は狭くなり、普通に泳ぐことすらままならない状態だった。 さらに、顔には麻痺が残り、右目のまぶたは閉じることができないままだった。 目が閉じることができないため、角膜が乾燥し、失明する危険性もあった。 また、水が目に入り刺激を受けやすい状態だった。 さらに由美子さんは平衡感覚を司る三半規管にも障害が残ったため、水中での回転や倒立は到底不可能な状態だった。 |
例え他の生徒の練習についていけなくても、由美子さんは決して諦めなかった。
母の和美さんは懸命に頑張る由美子さんを支えようと、身体障害者スポーツ指導員の資格を取得。
そして、由美子さんのために家の中から鏡を全て取り去った。そんなある日のことだった。 和美さんが学校から帰ってくる由美子さんを見かけた時、由美子さんは同級生から「フランケン」と呼ばれていた。 顔に大きな傷があり、顔面麻痺のため右目を閉じることができない由美子さんに対し、心ない同級生がつけたあだ名は「フランケン」だった。 その時、由美子さんはまるで気にしていないかのように明るく振る舞ったという。 だがそれから数日後、デパートの試着室から中々出てこなかった。 由美子さんは試着室の鏡を見て声もなく泣いていた。 和美さんは知ってしまった、常に気丈に振る舞っていた娘の本心を。。。 |
和美さんは娘のシンクロの衣装を手縫いで作っていた。
その時のチームに合わせ色や形に変更があれば、その度に作り直さなければならない。
最初の頃は何日も徹夜し、一着縫うのに3週間もかかったという。母と娘、二人で追いかけたオリンピックへの夢。 由美子さんは視力を回復させるため、遠方凝視は欠かさず、平衡感覚を取り戻すため昼夜を問わずプールで泳ぐ練習をした。 さらに、豊かな表情を作るにはどこの筋肉を動かせば良いのか訓練を続けた。 そして2年後、由美子さんはシンクロ全国大会のフィギア種目で5位に入賞! さらに、中学3年の時には全国大会、ソロ種目で8位になった。 そして高校生になると、ジュニアオリンピック全国大会で、なんと準優勝!! 由美子さんは目に見えて力をつけていった。 |
まだ事故の後遺症は完全に克服したわけではなかった。
視野は普通の人より狭く、顔面麻痺も残っており、まぶたも自分で閉じることができない。
だが由美子さんは、人の3倍も4倍も特訓を重ね、オリンピックの候補に名前が挙げられる存在にまでなった。そして、由美子さんが大学に入学した年の2003年、ついにアテネオリンピックの代表選考会が開かれたのだ。 選ばれた9人のシンクロチーム日本代表の中に、由美子さんの名前はなかった。 惜しくも選考会での由美子さんの成績は10位、9位までに出場権が与えられる中、後一歩で代表の座を逃してしまったのである。 これを期に由美子さんは突如シンクロの世界を去ってしまった。 10年もの間、全てをかけ打ち込んだにも関わらず、果たせなかった目標。 由美子さんの心は燃え尽きてしまったのである。 そして、1年半が経過したのだが、やはり由美子さんはシンクロを忘れることができないでいた。 そんな頃、和美さんは、由美子さんが子供の頃につけていた夢ノートを手渡した。 |
1年半のブランクの後、由美子さんはシンクロの世界に復帰した。
2007年に行われたスイスオープン大会、そこで由美子さんは世界の並みいる競合を抑え、ソロで見事優勝を果たしたのである!そして、2008年北京オリンピックが開幕した。 入場するシンクロナイズドスイミング日本代表の中に、由美子さんの姿があった。 オリンピックのシンクロナイズドスイミングは、規定演技によるテクニカルルーティンと、自由演技によるフリールーティン2回の演技によって競われる。 そして、最初に行われるテクニカルルーティンで日本人選手8人の中の1人として由美子さんが選ばれた!! 夢が叶った瞬間だった!! 壮絶な事故を乗り越え、夢の舞台にたった石黒由美子さん。 世界中が注目する大舞台で、彼女の顔からは最高の微笑みが溢れていたのである!! |
壮絶な事故を乗り越え、見事オリンピックの舞台にたった石黒由美子さん。
現在彼女は、シンクロの世界を引退し、神戸大学の大学院に通っている。
そんな彼女の現在の夢は、『障害を持った人達に勇気を与えること』。大学院入学を機に親元を離れ、神戸て暮らしている由美子さん。 この日は久し振りに名古屋の実家に里帰りした。 苦労を共に乗り越えた、かけがいのない母との団らんのひととき。 そんな中、由美子さんは私たちに意外な事実を教えてくれた。 北京オリンピックで泳いだ日は、和美さんの誕生日だったのだという。 オリンピックは母への最高のプレゼントだった。 そんな由美子さんの現在の夢ノートには、『一度決めたらやり通す』『勇気と希望を送れる人に!!』『夢は叶えるためにある』と綴られている。。 |
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