5月31日 オンエア
名産品誕生秘話 人の喜びに尽くした男の挑戦!
 
 
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 今や、ごはんのお供として国民的人気を誇る、博多名物、明太子。 だが、その誕生の裏側には…人並みはずれたお人好しの男とそれに戸惑う家族の姿があった。 彼はなぜ明太子にこだわったのか? そこには人の喜びに尽くした男のある熱い想いがあった。
 福岡市 博多区 中洲。 ここに博多明太子誕生の瞬間から、名物と呼ばれるようになるまで、その歴史の一部始終を知る人物がいる。 株式会社ふくやの相談役、川原健(たけし)さん。
 
 
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 健さんの両親は、福岡の中洲市場で食料品店『ふくや』を営んでいた。 もともと両親は、当時、日本が統治していた韓国の釜山で育った。 終戦から間もなく、2人は帰国。 3年後、焼け野原だった中洲に新たに作られた店舗兼住宅のうちの一軒を借り受け、食料品店を始めた。
 
 
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 父・俊夫さんは、近所に火事が出ると消防団員でもないのに、一番初めに助けにかけつけ、火事で焼き出された人には食事を提供した。 生活に余裕があるわけではなかったが、俊夫さんは困った人の面倒ばかりみていたという。
 さらに、地域の川でゴミ拾いなど、ボランティアに誰よりも熱心だった。 伝統の祭りの存続が危機に陥ると、自分で資金を出して危機を救った。 誰もがやりたがらないPTAの役員も喜んで引き受けたという。
 俊夫さんは健さんに常々こう言い聞かせていたという。 「健 よかか。自分が人にやりよったことの見返りば求めちゃいかん。人にしてもらったことは絶対に忘れるんじゃなかとぞ。」
 
 
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 そんな俊夫さんが、一つだけわがままになることがあったという。 ある食材のことになると、問屋さんに厳しい注文ををつけていた。
 きっかけは…店を構えてからしばらくした頃、俊夫さんは、釜山で食べていたのが懐かしくなり、タラコを買ってきた。 だが、食べてみると…生臭く、塩辛いだけで美味しくなかったのだ。
 
 
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 俊夫さんら夫婦は、日韓併合時代の韓国で暮らしていた。 そこで食べていたものは、タラコをニンニクや唐辛子で味付けした、『ミョンランジョッ』と呼ばれるキムチのような総菜だった。 当時日本人の間では「メンタイ」と呼ばれていた。
 しかし、当時は日韓ともに戦後の混乱期、物流が正常に行えず、取り寄せることもできなかった。 「メンタイ」をもう一度食べたいと懐かしむ、妻・千鶴子さんのため、俊夫さんはメンタイを自分で作ることにしたのだ。 それに、上手くできたら店で売れる…そうすれば博多のお客さんも喜んでくれるはずだと俊夫さんは思った。 健さんは、当時、父がなぜそこまでして人を喜ばせることが好きなのか分からなかったという。
 
 
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 こうして、記憶を頼りに作ったメンタイを店頭に並べたのだが…塩辛すぎて食べられないと不評だった。 そこから俊夫さんの挑戦が始まった。 元々忙しかった俊夫さんだったが、輪をかけて忙しくなった。
 朝早く起きてメンタイの研究、それが済むと仕入れや経理など、店の仕事。 他にも、商店街の会合など、いくつも役職についていたため、あちこち飛び回らなければならなかった。 そして、戻ってくると、夜遅くまでメンタイの研究に没頭した。 そうしてできたメンタイは、店で売り出したものの…ほとんど売れなかったという。
 
 
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 売れなかったメンタイは、家族や従業員が食べることになった。 健さんや従業員たちは、味を尋ねられると…「美味かです」と答えていたが、本当はあまり美味しくないと思っていた。 しかし、妻の千鶴子さんだけは、はっきりとダメだしをした。 俊夫さんは、味を選ぶのは千鶴子さんのような主婦だからと、妻の意見を素直に聞いたという。
 千鶴子さんが納得してくれるメンタイを作るため、素材であるタラコの質にこだわり、問屋さんに厳しい注文をつけていたのだ。 健さんは、もう問屋さんが来てくれなくなるのではないかとヒヤヒヤしたという。
 
 
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 数ヶ月後…問屋さんは、北海道産の厳選したタラコを持って来た。 それは粒がしっかりとした俊夫さんが望んでいたものだった。
 少しずつ改良したメンタイを、俊夫さんはPTAや商店街の会合に持っていったという。 そして、意見を聞き、改良を続けた。 しかし、5年経ってもメンタイは完成しなかった。 辛さ一つとっても、唐辛子だけで数百種類ある上に、その組み合わせ方、焙煎の仕方や砕き方…時間はいくらあっても足りなかった。 だが、俊夫さんは諦めなかった。 しかしどれだけ試行錯誤を重ねても、思った通りの味を作り出すことは出来なかった。
 
 
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 俊夫さんがメンタイの研究を始めてから10年もの月日がたっていた。 健さんは中学生になり、弟も生まれた。
 そんなある日、ついに千鶴子さんが納得できるメンタイがついに完成したのだ! 苦節10年…新鮮なたらこの使用、唐辛子のブレンドにオリジナルの味付け。 それらが絶妙にマッチし、今までにない味となったのだ。
 
 
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 健さんは当時のことをこう話してくれた。
「うちのお袋が一番喜んだ。『これや!』って言って。親父もお袋のその言葉を聞いて一番嬉しかったんじゃないですか。子供ができたくらい嬉しかったと思いますよ。」
 ふくやが作ったのは『味の明太子』。 ただの明太子ではなく、商品名に『味の』とつけたのは、試行錯誤を重ね作り上げたこの味こそが最大の売りであるという考えからだった。 これこそが、やがて日本の食卓を劇的に変えることになる、博多名物『明太子』誕生の瞬間だった。
 
 
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 そして、満を持して『味の明太子』が店頭に並んだ。 しかし、期待に反し、味の明太子は…ほとんど売れなかった。  俊夫さんは、相変わらず、祭りの資金が足りないからと銀行に行って借金したり、修学旅行に洗面道具などを持っていけない生徒のために代わりに用意したりしていた。 健さんは、父・俊夫さんがなぜそこまでするのか理解できなかったという。 そんな健さんに母・千鶴子さんは、父がなぜここまでするのかを話してくれた。
 
 
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 俊夫さんは戦争中、沖縄で補給係だった。 しかし、補給船が途中で攻撃されて、食料がろくに届かず、餓死する者が続出。 俊夫さんは、どうすることもできなかった。
 戦争が終わり、福岡に引き上げて来たものの…韓国で生まれ育った俊夫さんにとって、日本は数回来た程度。 周りに知っている人はいなかった。 そんな俊夫さんを博多の人たちは、快く受け入れてくれたという。 だからこそ、俊夫さんは残りの人生は自分のためではなく、人のために生きたいと思っているのだという。
 
 
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 ある日…健さんは、知らない人に「ふくや」の場所を尋ねられた。 なぜか、少しずつ…遠方からふくやに明太子を買いに来る人が増えてきていた。 そして…店には明太子を求めるお客さんが殺到するようになった。
 俊夫さんは、完成した味の明太子を、PTAなどの会合で試食してもらっていたのだが…その一人一人が俊夫さんのためならと、『味の明太子』を熱心に周囲に広めてくれたのである。 そうした人々の中には、東京や大阪からの転勤族も多く、明太子を気に入り、本社に行く際、買って帰るようになった。
 
 
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 さらに、お土産でその味を知った本社の人間が、福岡に出張に来る際に…ふくやに明太子を買いにくるようになったのである。 こうして口コミが口コミを呼び、徐々に人気を集めた明太子は、いつしか店の前に行列ができるほどの評判の品になった。
 10年近くに渡って、俊夫さんは街の人のために見返りを求めずに尽くしてきた。 だからこそ、今度は彼らがその恩を返してくれたのだ。 こうして、全国的に有名になったふくやの『味の明太子』 だが、たった一軒の食料品店が始めた明太子が、博多を代表する特産品となり、全国に広まったその背景には…俊夫さんの驚くべき決断があった。
 
 
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 明太子を求めて遠くからお客さんが訪れるようになると、彼らがふくやと間違って他の店に入ってしまうことが多発した。 そこで、間違えられた店の店主は、『味の明太子』を店頭に置かせてほしいと、頼み込んだのだが…俊夫さんは卸売販売をしたくなかった。 商品の管理が行き届かなくなり、一番美味しい時に明太子を食べてもらえなくなる…さらに中間マージンが発生し、明太子が高額になってしまうからであった。 そこで俊夫さんは…なんと、10年もかけて完成させた製法を惜しげもなく公開したのである!
 しかし、俊夫さんは最後の味付けだけは、あえて伝授しなかった。 そこには、彼なりの考えがあった。 各店がそれぞれ、一番美味しいと思う味付けをすることで、店ごとに味の特徴が出る。 その結果、お客さんが様々な味の明太子を楽しめるようになると考えたのだ。
 
 
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 こうして、明太子を製造販売する数多くの会社が現れた。 彼らは店ごとに独特の味付けを施し、ふくやとはまた別の明太子の味を作り出した。 さらに、1975年に福岡に新幹線が開通すると、博多の明太子は爆発的に売れることとなり…その名を知らない人はいない国民的なご飯の友となった。
 そして1979年、福岡県の高額所得者に個人商店を営む俊夫さんが名を連ねるようになった。 上位に医師らが並ぶ中、これは極めて異例なこと…一体何故か? 実は俊夫さんは、「たくさん税金を納めることで人の役に立つ」という思いから、あえてふくやを法人化せず、個人として多額の税金を納めていたのだ。
 
 
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 その後も派手な生活をすることなく、晩年は孫にも恵まれ、幸せに暮らしたという。 そして1980年7月、川原俊夫さんは息を引き取った。67歳だった。 俊夫さんの死後、人々を驚かせたことがある。 高額所得者に名を連ねていたにも関わらず、資産がほとんど残っていなかったのだ。 実は…自ら稼いだ莫大な利益を、祭りの資金など地元の人のために使っていたからだった。
 
 
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 毎年恒例の夏祭り、「博多祇園山笠」が行われることで有名な櫛田神社。 中心に位置する馬の銅像、そこにある石碑には…祭りを愛した俊夫さんの名が刻まれている。 しかし…この神社の他に川原俊夫さんの名前が残っている所はないという。
 祭りのために多額の寄付をするなど、博多の人々のために尽くしてきた俊夫さん…なぜその名があまり残っていないのだろうか? 生前の俊夫さんと親交があり、その人柄をよく知る川原さんはこう語る。
「あんまりあの人は、でしゃばって俺の名前を残せというような人じゃなかったんですよ。みんなの為になるようなことは自分が金集めから、そういうお世話までする。ただし、俺が作ったんだとか言って挨拶をするとか…そういうようなことは、あの人は絶対しない人だった。」
 
 
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 昨年、あるインターネットサイトが、大好きなご飯のお供に関するアンケートを実施したところ…明太子が堂々の第1位に輝いた。 しかし、さらに驚くべき事実がある。
 ふくやの現社長、川原武浩さんはこう語る。
「実は、韓国の方では元になった『ミョンランジョッ』という食べ物がかなり減って来ていて、商品として販売されているのはほとんど見かけないですね。」
 なんと韓国では現在、明太子の原型となった「ミョンランジョッ」は、ほぼ姿を消し… その代わりに、市場に出回っているのは、韓国の会社が俊夫さんが生み出した製法で作った明太子ばかりだという。
 
 
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 実はこの方…健さんの息子。 創業者である俊夫さんの孫にあたるのだ。
 武浩さんは、こう話してくれた。
「はじめに作ったから一番偉いんじゃないんだ。その時に一番美味しいものが一番なんだということを言ってたそうですので、常に一番美味しいと言ってもらえるような、そういうものを作りたいというのは、会社の中にきちんと残っていると思います。」
『人を笑顔にしたい』そんな俊夫さんの想いは今も受け継がれている。