11月3日 オンエア
世界が生き様に注目★黒田投手!知られざる半生
 
 
photo  人生の選択において、これほどアンビリバボーな決断を下した男が、過去にいただろうか? 彼の名は、黒田博樹、41歳。 今年、広島カープを、25年ぶりのリーグ優勝に導いた立役者だが…つい先日、現役引退を表明。 日本シリーズの第3戦で、最後のマウンドに立ち…20年間の現役生活に、ピリオドを打った。
 あなたはご存知だろうか? その引退は遠く海外でも報じられ、また彼の生き様は世界中の人々の心を動かしているという事を…
 今夜のアンビリバボーは…黒田選手が緊急出演。 これからクライマックス、日本シリーズを迎えるというタイミングだったにも関わらず、特別にインタビューに応じてくれた。 そして今宵、その言葉とともに知られざる半生に迫る!
 
 
photo  まずは、人々の度肝を抜いた「ありえない決断」の数々。 2008年からの7年間、メジャーリーグで活躍した黒田。 そこは超一流が集まる、弱肉強食の世界。 結果が出なければ、容赦なくクビになる、そのため選手は、少しでも長くチームと契約しようと、自分を売り込むのだ。
 
 
photo  かつて、6年契約を勝ち取った松坂投手と同等の実力と評価されていた黒田。 2007年、ロサンジェルス・ドジャースと入団交渉に入った。 ドジャースの申し出は、4年契約、50億円。 松坂より2年少ない提示だ。
 黒田は4年契約に難色を示した。 何と、黒田は契約を1年減らし、3年契約して欲しいというのだ! 契約を1年短くするという事は、年俸の総額が10億円近くも、減ることを意味していた。
 黒田が契約を短くしてほしいと要望したその理由…それは「まだメジャーで一球も投げてないのに、何年も実績を積んだ選手より、条件が良いなんて納得できない。」というものだった! 10億円を拒否するというそのあり得ない決断に、アメリカの球界関係者は心底驚きを隠せなかったという。
 
 
 こうしてメジャー入りした黒田は、3年間、安定した活躍を見せると、ドジャースとさらに1年契約を結んだ。 そして迎えた4年目の夏、再び決断の時が訪れる。
photo  優勝を狙っているチームから、トレードの打診がきたのだ。 メジャーでは、優勝を争っているチームが戦力を強化するため、早々と優勝争いから脱落したチームから、シーズン中でも有力選手を引き抜くケースが多い。 世界最高峰のメジャーリーグでの優勝。 それを経験することは、選手として最高の名誉。
 ところが…黒田はこのオファーには意味がないと、断ってしまう。 その理由とは…「行ったばっかりのチームで優勝しても素直に喜べない」というものだった。 この決断を、地元紙は驚きをもって報じた。 そして、ドジャースファンは黒田の残留に歓喜、シーズン終了までより一層の声援を送った。
 
 
photo  その後、ドジャースでの活躍を評価された彼は…2012年から、全米一の名門チーム・ニューヨークヤンキースに移籍。 そこで3年連続、10勝以上をあげるという快挙を成し遂げる。
 
 
photo  一昨年、シーズン終了後、黒田が他球団と契約できる権利を獲得すると、高額のオファーが殺到した。 以前在籍していた「ドジャース」は、年俸19億円! 「パドレス」は最高額の20億円を提示! 次に袖を通すユニフォームは、ドジャースか、パドレスか!?
 ところが…翌年、黒田の姿は…広島にあった。
なんと、年俸20億円ではなく、その4分の1、推定年俸5億円の広島カープと契約したのだ。
 黒田が下してきた、常識とは懸け離れたいくつもの決断。 実はそこには…これまであまり語られることのなかった、彼の波乱万丈の半生が影響していた。
 
 
photo  1975年、黒田博樹は大阪で生まれた。 プロ野球の選手だった父・一博さんは、南海ホークスで、外野手として活躍。 引退した父が監督を務める少年野球チームで、黒田は野球を始めた。
 彼に大きな影響を与えたのが、母・靖子さん。 かつてオリンピックを目指した砲丸投げの選手だった。
 黒田は、母・靖子さんについてこう話す。 「一言で言うと本当に男っぽい人だったので、学校の体育の先生をやっていたんで、今では考えられないんですけど、生徒を男であろうが女であろうが殴っていたというのを聞いて、凄いなと思ったんですけど」
当然、子育ても熱血だった!
 
 
photo  スポーツ選手の両親をもち、恵まれた体格の黒田は…「甲子園に出たい!」という夢を抱いた。 黒田が入学した私立 上宮高校は、野球のエリート揃いだった。 その証拠に、彼の入部当時にいた全部員の中から、のちに7人がプロ入りを果たしている。 入学した時、「とんでもないところに来てしまった…」そう思ったという。
 それは、1年生の夏合宿でのこと…「黒田!お前あとで、試合終わったらずっと走っとれ!」、監督にそう指示を出された。 休む事、食事をとる事も許されなかった。
 
 
photo  そして…許しを貰えぬまま4日目の夜になった。 そんな時…その時一緒に走っていた先輩の両親が迎えに来て、黒田も一緒に家に連れ帰ってくれた。 そこで4日ぶりのお風呂と、ご飯を食べさせてもらったという。
 そして、先輩の親は気を利かせて黒田の家に電話し、事情を話した。 ところが…それを聞いた母はこう言ったという。 「有り難いんですけど、お金は払いますんで、ウチの子だけタクシーで学校へ戻して走らせて下さい。」 黒田は当時…とんでもない親だと思ったという。
 
 
 のちに母の真意に気づいた黒田は著書でこう語っている。 『自分がお世話になると決めた監督から命じられたことならば、どんなことがあってもその教えは守るべきで、上宮高校を選んだ以上、黙ってそれに従う』
photo  「筋を通す」ことの大切さ…それを母から教わったからこそ、「行ったばっかりのチームで優勝しても素直に喜べない」という考えに至ったのだ。 元々、優勝を目指して戦ってきたドジャースのメンバーと、最後まで一緒に戦うことが、「筋」だと、考えたのだ。
 その姿勢を貫き、のちにはメジャーリーグでも活躍する黒田だったが、高校時代の彼は、エースどころか3年間補欠だった。 しかも…学校も甲子園出場の夢叶わず…野球部を引退。
 
 
photo  それでも野球を諦めきれず、関東の強豪、専修大学に入学。 猛練習に耐え続けた。 その頃、心の支えとしていた言葉がある。 『耐雪梅花麗』雪に耐えて梅花麗し、西郷隆盛が詠んだ漢詩の一節で、意味は…「苦しまずして栄光なし」。
 「高校時代にそれこそ本当に試合で投げても打たれる。そして監督に常に走っとけと言われて、朝から晩まで走るだけの野球生活だったんで、今苦しい思いしているけどやっぱり、いつかは花が咲く時があるんじゃないか、その時の自分の気持ちがすんなりその言葉に入っていけた。」
 
 
photo  黒田は大学2年で、球速140kmを超えるまでに成長。 そんな頃だった…一人の男性がグラウンドにたびたび姿を見せるようになった。
 その男性こそが広島カープのスカウト、苑田聡彦さんである。 苑田さんは当時を振り返り、こう話してくれた。 「打たれても打たれても(打たれた)球で勝負する 絶対逃げなかった。やられたらやり返す。この子は絶対成功すると確信していた。ただカープに入団して、5本柱4本柱くらいにはなれるんじゃないかなとは思ったけど、こんな大選手になるとは…」
 
 
photo  そして大学4年生の時には…球速150kmを記録、ついにチームのエースとなった。 すると、他球団のスカウトからも注目されるようになった。 しかし黒田は、当時 採用されていた逆指名制度で広島に入団。
 その理由とは?…当時の規定でプロのスカウトが、アマチュアの学生に声をかけることは禁止されていた。 それでも苑田さんは、黒田が2年生の頃から、神奈川の端のほうにある球場に足を運び、黒田に声をかけることもせず、ただずっとプレーを見ていたのだ。
 「それだけ僕のことを見て、そこまで評価して頂けてるっていうので、カープしかないなっていう気持ちになりました」
なんと球団を決めた理由は、年俸などの条件面ではなく自分を見ていてくれていたスカウトマンへの気持ち「情」だった!
 
 
photo  黒田は一体なぜ、この時、情を重んじる決断を下したのか? それにも理由があった…母、靖子さんの存在である。
 広島に入団して5年目、2001年のことだった。 高校で教鞭をとっていた母が病に倒れた…がんが進行していたのだ。 だが、病床にあっても、プロになった黒田にチームに迷惑をかけたらいけないと叱咤していた。 そんな母も病には勝てず、60歳の若さで他界した。
 
 
photo  母が亡くなった時、教え子がいる学校に霊柩車を通らせてもらったという。 すると、授業中にも関わらず、多くの生徒が出てきて手を合わせてくれた。 中には泣いている生徒もいたという。 母は、厳しくも温かい眼差しで教え子に接する、情の深い教師だった。
「その時の生徒の皆さんの、顔を見て、自分の母親なんですけどね、偉大な人だったんだと思った。」
 
 
photo  母の死後、聞かされたことがある。 病状が悪化していたが、息子に余計な心配をさせないため、あえて気丈に振る舞っていたと…息子を思う母の優しさだった。
 そんな母譲りの「情」を受け継いだ黒田だからこそ、真っ先に自分を見出し、ずっと見守ってくれた苑田さんに恩を感じ、カープを選んだのだ。 そして広島に入団した黒田は一年目から試合に出場すると、5年目にはエースとして頭角をあらわし、以降大黒柱として活躍することになるのである。
 
 
photo  プロ生活10年目を迎えた2006年、ファンにはどうしても気がかりなことがあった。 カープには、避けがたい運命がある。 巨人や、阪神など大きな親会社がある球団とは違い、資金力に乏しい市民球団だ。 よって赤字は決して許されない。 主力選手の年俸が上がると、その金額を支払うことが困難となり、手放さざるを得ないのだ。
 実績を積んだ選手が、他球団と自由に交渉出来る『フリーエージェント宣言』をすると、カープは、引き止めはしない。 この年、他球団と交渉出来る資格を得たカープのエース、黒田の獲得に、国内外の複数の球団が乗り出していた。
 
 
photo  ファンの関心は、シーズン終了後に黒田が「フリーエージェント宣言」をし、移籍するか、或いは残留するかに集まっていた。 カープは、優勝から遠ざかること15年。 この年も既に5位が決定していたシーズン終盤、広島市民球場での試合が最後に迫った頃…黒田は悩んでいた。
 高校時代、ずっと補欠だった自分が今、多くの球団から高く評価され、ラブコールを受けている… しかし、無名の学生だった自分をいち早く見出し、育ててくれたカープ。 そして…辛いときも熱い声援を送り続けてくれたカープファンへの思いとの間で、黒田の心は揺れ動いていた。
 
 
 そんな状況を知ったファンは、驚くべき行動に出た。 迎えたホーム最終戦。 広島市民球場は、異様な空気に包まれた。 9回ツーアウトの場面で…黒田が登場。 すると…スタンドに横断幕が…書かれていたのは、ファンからのメッセージ
photo 『我々は共に戦ってきた 今までもこれからも・・未来へ輝くその日まで。君が涙を流すなら 君の涙になってやる。Carpのエース黒田博樹』
 本当は、残留して欲しい。 だが、たとえ移籍しても、最大限のエールで背中を押してあげたいという、ファンの切なくも熱い思いだった。
「今までFA宣言を取った選手に対してそういうファンの人の動きを見たことがなかったので、まさか自分にして頂けると思っていなかったので、正直、嬉しかったというのを覚えている。」
 
 
photo  ファンは、思った。 カープのユニフォームを着る黒田を見るのは、これが最後なのだと。
 答えがでたのは、3週間後の記者会見。 黒田の口から出た言葉は…「私、黒田博樹はFA権を行使せずに、広島東洋カープに残留することを、ここで皆様にお伝えしたいと思います。」 快く送り出したい、そんな思いでファンが書いた横断幕に、黒田が残留を決意したのだ!
 
 
photo  残留の翌年、黒田に強い想いが芽生え始める。 メジャーへの移籍だ。
 「僕自信は国内で他のチームに行くというのは想像できなかった。他の球団と話をすることもなかった。テーブルに着くことも一切なかった。国内で自分が動くというのは考えていなかった。」
なぜなら…勝負に勝つためには、時に打者に対し…厳しいボールを投げざるを得ないことがあるからだ。
しかし…「今まで一緒に戦ってきた選手を相手に、インサイドに強いボールを投げたり、なかなか自分には出来ないんじゃないかな。」
 
 
photo  世界最高峰の舞台で野球をしたいという想いは日増しに強くなり…ついに黒田はメジャーリーグ移籍を決断、会見を開いた。 その会見で、記者から広島のファンへのメッセージを聞かれ…思わず声を詰まらせた…この姿を見たファンに、彼を責める者は居なかった。
 
 
photo  そして黒田は、11年間苦楽をともにしたカープのユニフォームを脱いだ。 この年、もう一人の中心選手がFAでカープを去った。 四番打者の新井貴浩。 新井は、阪神に移籍した。
 
 
photo  一方、メジャーリーグ入りした黒田。
海の向こうでも熱い気持ちで人々の心を動かした。
 メジャー2年目の2009年。 この日黒田に、予期せぬ出来事が起こった。 バッターの強い打球が…頭を直撃! 打った相手も心配そうに見つめる。 病院に搬送され、即入院。
 
 
photo  長期離脱を余儀なくされ落胆していた時だった。 病室に相手打者から手紙が届いた。
『あなたにけがをさせてまで、私はメジャーで野球をやろうとは思わない』 もちろん、わざと狙って打ったはずもない。 まったく落ち度がないにもかかわらず、彼は自分を強く責めていた。
 手紙を読んだ黒田は、こんなコメントを送った。
「僕が野球をやめたとき、君という名選手にボールを当てられたと、胸を張れる選手になってほしい」
選手生命を脅かしかねない事態だったにも関わらず、相手を気遣い励ましたのだ。
 
 
 黒田と心を交わした選手は他にもいる。 ドジャース不動のエース、カーショー。 現役最強の左腕と呼ばれ、今期、メジャーの最高年棒を誇る大投手である。 実は彼は…黒田と毎日キャッチボールをする練習パートナーだった。 photo 年は13歳若いが、入団時期が一緒だったのだ。
 それは黒田が、シーズン最後の当番日のこと…カーショーから「キャッチボールしよう」と言われたのだ。 その年、カーショーは最後の登板が終わっており、そのままシーズンオフに入っていく。 アメリカ人の感覚では、全くキャッチボールもせずに投げないのが普通だ。 しかし、カーショーは黒田の登板が終わらない限り、自分のシーズンは終わらないと言ったという。
 
 
photo  実はこの頃、ドジャースで4年間実績を積み上げたことで、数々の球団が黒田の獲得に乗り出そうとしていた。 黒田が他球団に移籍する可能性は、限りなく高い。 最後のキャッチボールになることを、カーショーは予感していたのだろう。
 そして黒田は、移籍先を決める交渉で…カーショーと対戦するナショナルリーグを避け、滅多に戦うことのない、違うリーグへの移籍を希望したのだ。 プロなら当然優先する条件面ではなく、黒田は「情」を大事にしたのだ。
 
 
photo  シーズンオフ、移籍先が決まった黒田は、カーショーにその連絡をした。 『ヤンキースに、行くことになった』
すると程なくして届いた返信には・・ 『ヒロ、来年から僕は、誰とキャッチボールすればいいんだい?』
 のちにカーショーはこう語っている… 「黒田がいない事に少しずつ慣れてきた。もちろん今でも寂しい 素晴らしい男だからね。友人もみな彼の事を尊敬している。プロに徹した男だから。彼が活躍しているのは嬉しいよ。」
 
 
photo  その後、ヤンキースに移籍した黒田は、そこでも3年続けて10勝以上を記録した。 プロになって以来、常に第一線で活躍を続けてきた黒田。 まさに誰もが羨む野球人生を送ってきたかに思えるのだが…
 彼の自伝にはこう書かれている。 『中学生以来、野球を楽しいと思ったことは本当に一度もない。』
「どっちかというと苦しい野球人生というか、そういう人生だったような気はします。」
 
 
 いったいなぜか? そこには知られざる黒田の苦悩が隠されていた。 ピッチングを楽しいと思った事は、一度もないと言う黒田。 photo 理由は、少年時代の原体験にあった。
 胸をときめかせプロ野球の試合を見に行った黒田少年は、ひいきのチームが勝つと、こう思ったという。 『きっと僕が観に来たから、勝ってくれたんだ』
 そしてそんな彼は…プロ入り後、こう思うようになっていた。 「僕にとっては、シーズンの中の1試合。だが、今日見に来てくれたファンにとっては、思い出に残る大切な1試合になるかもしれない」
 
 
photo  ーーお客さんが入っている時点で負けていい試合は絶対に存在しないーー
これが黒田の信念となった。 だからこそ…打たれることが怖かった。
 「怖いから練習して上達するしかない」 彼にとって野球は常に、恐怖との戦いだった。
 
 
 この恐怖があのあり得ない決断の1つの要因でもあったという。 メジャー移籍時、ドジャースの申し出は、4年で50億円。 いつクビになるかわからないプロの世界、誰もが長い契約を勝ち取ろうとする中…契約を3年に減らして欲しいという要望を出した。
photo 「4年間やっていけるかなと言う気持ち、不安というのが強かったんで、まずは3年。僕の中では刑務所に行くような気持ちで、アメリカに行って、そこで勝負すると決めたんで。そういう気持ちで野球するなら短いほうがいいかなと。」
 打たれる恐怖に耐えながら投げ続ける。 そんな苦しい闘いを4年も続けるなど想像もできない。 せめて3年なら…そんな思いも、黒田が契約期間をあえて1年短くした理由だった。
 
 
photo  だが、恐怖に打ち勝ち、ドジャースで4年間、活躍。 その実績が認められヤンキースへ移籍した。 もちろん常に試合に命がけで臨む姿には1ミリのブレもない。
 そんな黒田の覚悟を象徴するシーンがある。 その日好投を続けていた黒田。 しかし…自信を持って投げた球を審判にボールと判定された。 結果、黒田はその打者に打たれ交代。
 そしてベンチに戻る時だった…珍しく、審判に怒鳴り返した。 一体、何があったのか?
 
 
photo  実は黒田がベンチに戻ろうとした時、審判が…「間違えたのはあの1球だけだろう」と言ったという。 それが我慢できなかった。
「その1球を投げるために、こっちはたくさんの調整をして、いろんなデータをとってその1球のためにいろんなことをやって投げているんで、それを軽く言われるのはちょっとね。」
 『この試合が最後になっても構わない』 常にそう考え、恐怖に耐えて全力を尽くす彼とっては、許せない一言だったのだ。
 
 
 苦しみながらも、メジャーリーグで7年間活躍。 輝かしい実績を積み上げてきた黒田。 そんな彼に2年前のオフ、メジャーの複数の球団が興味を持ち…提示された年俸の最高額は20億円、まさに破格の待遇だった。
 そして彼が下した、決断は…「8年ぶりに広島に帰って来まして…」 そう、黒田は20億円の年俸を蹴って、推定年俸5億円でカープに復帰したのだ。 photo その理由について、彼はこう話している。
「2006年ですかね。最初にFA権を取得したときに、ファンの人達に心を動かしてもらったので、今度は自分がファンの人たちの気持ちを動かせればいいかなと…」
 ファンへの感謝の想い、そして…「何か自分の中で広島に帰ってきたい気持ちと、帰らないといけないというか、使命感というか、」
使命感が黒田に復帰を決意させたのだ。
 
 
photo  昨年3月29日。 ファンにとって、待ちに待った日がやってきた。 公式戦初登板となるこの日、スタジアムは超満員! そして…止まないスタンディングオベーション。 広島がこの男の復帰を待っていた。
 そして、この試合に勝利すると…こう話していた。 「これだけたくさんの声援を受けて、マウンドに上がって、そしていい結果が出て、ホッとしています。」
 負けて良い試合など存在しない。 復帰戦以降も黒田は体を張って、勝利への執念を見せ続けた。
 
 
photo  強い味方も戻っていた。 カープの4番バッター、新井貴浩。 そう、黒田メジャー挑戦と同じ年に、阪神に移籍して行った新井だった! 黒田とともに広島カープ復帰を決意した新井。 これで投打のリーダーが揃った。
 そして…今年7月、黒田はついに日米通算200勝を達成。 セレモニーでは広島ナインが着たシャツに黒田の座右の銘「耐雪梅花麗」の文字が…
 
 
 こうして、数々の栄誉を手にし、球界の大スターとなった黒田だが、たった1つ、手にしていない栄光があった。 メジャーでも縁のなかった優勝である。
photo 「1番言われて悔しいのは優勝経験がない。最後、土壇場になった時に優勝経験があるチームが強いとか、解説者の方がよく仰られるんですけど、そういうのが一番、自分が優勝経験がなかったというのに対して、常に悔しい気持ちを持っていた。」
 カープ自体も、25年、遠ざかっていたリーグ優勝。 実現すれば、最大の恩返しとなる。 黒田と新井に引っ張られ、カープの若手選手達の戦う姿は日を追って逞しくなり、若手とベテランの力がバランス良くかみ合い、今年カープは夏から独走態勢に入った。
 
 
photo  優勝に王手がかかったこの日、巨人の本拠地である東京ドームに、大勢のカープファンが駆けつけた。 先発の黒田が大声援を受け、力投すると…若手の活躍でカープ逆転。 黒田は、6回を3失点に抑え、後輩に後を託し、最終回、その時を待った。
 メジャーでも叶わなかった夢が…ついに実現した! 広島カープ、25年ぶりの優勝。 共にカープを去り戻って来た新井と抱き合った瞬間、カープファンも涙した!
 
 
photo  黒田が宙を舞う。
「自分自身も嬉しかったけど、今、カープは若い選手がたくさんいるんで、そういう選手が優勝を経験できたというのが、今後のカープにとっても彼らの野球人生にとっても、すごく大きいんじゃないかなとそっちの方が嬉しかった」
ファンと、黒田がこの日流したのは歓喜の涙だった。
 
 
photo  カープを25年ぶりのリーグ優勝に導いた黒田。 日本シリーズでは日本ハムと対戦、チームは惜しくも日本一を逃した。 好投を続けていた第3戦で大谷に投げた8球目。 これが現役最後の投球となった。
 プロ生活20年、41歳の鍛え抜かれた肉体も…ついに、悲鳴を上げた。 両足に違和感を覚えたのだ。 チームの為にならなければ、マウンドを降りる。 全試合、勝つことだけを考えて投げ続けてきた黒田らしい最後だった。
 
 
photo  後日、黒田は記者にこう語った。 「最後は日本シリーズのマウンドに立てると思っていなかった。日本ではチャンスがなかったので、一緒に戦ってきた仲間に感謝したい。」
そして1度も楽しいと思ったことがない野球について、こう語った。
「今まで一生懸命野球をやってきてよかった」