9月15日 オンエア
奇跡のバスケットボールコーチ
 
 
photo  今から9年前、プロバスケットボールチームの試合会場である人物のセレモニーが行われた。 選手でもなければ、監督でもない。 しかしその時、会場は感動と驚きに包まれた。 これは、病いと絶望に立ち向かいながらも、バスケットボールを愛し続けた男の壮絶な物語である。
 
 
photo  今から40年前、下地 一明(しもじかずあき)は、沖縄で生まれた。 中学からバスケットを始めた彼は、中3で既に身長191cm! その後、バスケットの強豪校、沖縄の北谷(ちゃたん)高校に進学。 期待を胸にバスケ部に入部したのだが、体育館に行くと怖い顔をした監督が待ち受けていた。
 体育館に部員よりも早く体育館に来ていたのは…沖縄バスケ界、伝説の指導者と呼ばれる、監督の安里 幸男(あさとゆきお)。 無名校を全国ベスト4にまで押し上げたこともある名将だった。
 
 
photo  そんな安里が課す練習の厳しさは、下地の想像以上。 朝練は6時半から2時間。 放課後は16時から夜遅くまで続いた。 あまりの辛さに、吐いてしまうこともしばしば。
 安里は、生徒達に練習ノートを書かせていた。 『自分で考えられる人間』に育てるためのものだった。 下地のノートは、課題や反省点が驚くほどしっかり書かれていた。
 
 
photo  安里の指導のもと、下地はメキメキと実力をつけ、一年生からレギュラーを獲得。 高校を卒業後は東京の中央大学に進学。 リーグ戦で得点王争いのトップを走り、ついには全日本の代表候補入りを果たした。
 だが、チームの中心になればなるほど…強引なプレーが顔を覗かせるようになっていた。 しかもそれは、高校時代、安里に指摘されていた欠点でもあった。
 
 
photo  だがこの頃、安里ですら想像できない、黒い影が迫っていた。 それは大学3年で迎えた秋の関東リーグ戦。 下地の得点王がかかっていた試合だった。
 相手の肘が胸に接触。 大事を取ってベンチに退いたのだが…胸に激痛が走り、倒れてしまった。 いったい何が起こったのか?
 
 
photo  すぐさま病院へ搬送。 診断の結果、下されたのは…『マルファン症候群による解離性大動脈瘤』。 生まれつき血管の強度が弱く、壁が裂けやすいため、大動脈の内部に裂け目ができる。 そこに血液が流れ込んで、血管が膨らんでしまう病気である。
 既に、下地の血管は破裂寸前の状態だった。 何とか、手術は成功したが…。 激しい運動を続ければ命の保証はなかった。 得点王も、日本代表も…全ての夢が消えた。
 
 
photo  失意のまま一般学生と同じ様に就職活動を行い、下地は工具メーカーに入社。 会社のバスケ部は、実業団に所属するチームだった。 “少しでもバスケに関わっていたい” そう思った下地は雑用しかできなかったが、毎日、練習場に顔を出した。 分かってはいたが、それでもいざ選手を見ると…彼らが眩しく見えた。
 更に…「見ろよ、あれ、下地さんじゃない? 代表候補だった…何でモップなんか掛けてるんだ?」 たまたま、練習試合で訪れていた学生たちの話している声が聞こえてきた。 それは、ついこの間までトップ選手だった彼には、屈辱でしかなかった。
 
 
photo  そんなある日、会社のチーム練習でのこと… ある選手からゴール下のポストプレーを教えて欲しいと頼まれ、アドバイスをしていた。 すると…他の選手たちからも教えてい欲しいと頼まれるようになった。
 その時、下地は『教えるだけなら、この体でもできる!』、そう思った。 下地は現役時代には得られなかった、新鮮な充実感を感じ始めていた。
 
 
photo  そんな彼に、人生の転機が訪れる。 プロバスケットボールチーム『新潟アルビレックスBB』、その2軍チームのコーチ就任の誘いを受けたのだ。
 所属するメンバー9名は、一軍に入りプロで活躍することを夢見ていた。 しかし現実は、アマチュアの大会ですら初戦で敗退するなど、伸び悩んでいた。
 実はこの少し前、下地は『解離性大動脈瘤』を再発していた。 幸い処置が早く、大事には至らなかったが、残されたバスケット人生を指導者として全うしたい、そう思うようになり、迷わずコーチを引き受けた。
 
 
photo  そして迎えた練習初日。 場所は、高校の体育館を借りて行う予定だったのだが… 集合時間にもかかわらず、選手の姿がどこにも無かった。 その後…やっと練習に来た選手達に、体育館を貸してくれた高校の先生に挨拶に行くと言うと…選手達は「僕らが、ですか?」と不満気だった。
 
 
photo  そして練習でも…。 自分本位な個人プレーが目に余った。 それはまるで、かつての自分だった。
 選手達は、スカウトが目的で個人プレイに走っていたのだ。 一体、どうすれば彼らの考えを正せるのか? いきなり、下地は難題を抱えた。
 
 
photo  すると彼は…誰よりも早くコートに来て準備を始めた。 そう…高校時代の監督、安里の教えを参考にしたのだ。
 さらに、練習の反省と課題を選手たちに書かせた。 自分で考えられる人間に育てるために。 だが…どれも言われたから仕方なく書いた、そんな内容だった。
 
 
photo  2軍チームを教える傍ら、下地は、新潟アルビレックスのスクールで、幼い子供たちも指導。 「下(しも)コーチ」の愛称で呼ばれるようになっていた。
 
 
photo  一方、2軍選手たちの意識改革は、思うようには進まなかった。 だがそんなある日、選手達は下地のノートを見つけた。 中には練習内容だけでなく、選手ひとりひとりが取り組むべき課題がこと細かに書かれていた。
『ヤマ、ピボットの使い分け。スタンスの確認』
『シマ、ボールミートの徹底!』
『今日は気持ちの問題であり、自分たちがどうあるべきかを忘れてしまった。明日は自信を持って、バスケットボールを楽しんで欲しい。自分たちを信じて!』
 
 
photo  チームを強くしたいだけじゃない。 ひとりひとりを、ちゃんと思ってくれている。 そのことに気づいた選手達は、少しずつ変わっていった。
 その変化は、彼らが記していたノートにも… 『自分の中で一番反省しているのがシュートミスやイージーミスやフリースローを外したりしてしまい、チームが波に乗れなかったことです。ディフェンス面は自分はまだまだだったけど、チームディフェンスは良かったと思います』
仲間を思う気持ち、チーム意識の高まりがノートに表れ始めたのだ。
 
 
photo  次第に選手たちの思いと、下地の情熱が一つになり… 一丸となったチームは、大会ごとに着実に力を付けて行った。 そしてこの年、新潟県代表として出場した全日本クラブ選手権で…初の準優勝を勝ち取ったのだ! 1年前には初戦敗退していた大会だった。
 そして翌年のプロを選抜するドラフト会議で、合計4人もの選手が念願のトップチーム入りを果たした! こうした指導力が評価され、下地は新潟アルビレックスBBの、1軍プロチームのアシスタントコーチへ昇格。 チームメンバーと共に歩き出した。
 
 
photo  2度目の発症から5年、プロチームのアシスタントコーチに昇格した下地。 だが…そんな彼を恐れていた事態が襲う。 3度目となる『解離性大動脈瘤』の発症だった。
 チームの埼玉遠征中に発症。 そのまま昏睡状態に…そして、手術から一週間が経っても、下地が目覚める様子は無かった。 そこに…報せを受け、沖縄から安里がやって来た。 安里は必死に下地に声をかけた。
 当時を振り返り、安里さんはこう話してくれた。 「呼び戻すしかない。できることはそれだなと。僕の力で呼び戻せる訳ではないんだけど、彼のちょっとした力になれないかなと思って、そういう思いだけで病院へ行った。」
 
 
photo  そして手術から一ヶ月が経った頃。 ようやく、昏睡状態から脱した。 だが…辛うじて首と手の指が動くだけ。 腕も足も全く動かなかった。
 大動脈瘤によって、血流の大部分が遮断されると、運動機能を司る脊髄に血液が行き渡らず、脊髄自体が機能不全に陥ることがある。 そして、一度機能しなくなった脊髄は、たとえ手術で瘤を解消しても、機能が回復するとは限らない。 それは…立つ事も歩く事も厳しいことを意味していた。
 
 
photo  しかし社長の中野は…絶対にチームに復帰させるつもりでいた。
中野さんは、こう話してくれた。
「もう歩けなくなろうが、車椅子でベンチに座っていて構わないと思っていた。技術を教えなくても彼はハートを教えられますので。伝えられますので、君の戻る場所はここしかない。」
 
 
photo  目覚めてから5日。 リハビリを始めるも、やはり手足は動かず、気持ちだけが先走った。 まだ無理だという、理学療法士に立たせてくれるようにお願いした。 だが…裸足だったのにもかかわらず、床の冷たさを感じることができなかった。 それは、神経が機能していないことを意味していた。
 以来、一切のリハビリを拒否。
生きる希望すら失っていた。
 
 
photo  そんな時、2軍時代から指導していた寺下選手が見舞いにやって来た。 寺下は他の選手達の応援メッセージを録音したテープを持ってきていた。
 「下地さん 杉山です。下地さんが帰ってきた時に、杉山はホント馬鹿だなって言われないように、しっかりとフォーメーション覚えて頑張っていこうと思っています。」
「下地さん 早く良くなって帰ってきてください。最後見た自分より、いいプレーヤーになってるように頑張ります。」
「下地さん 寺です。下地さんの復活を誰よりも待ってます。」
それは、共に汗を流した、アルビレックスの選手たち、そしてコーチ陣からの熱いエールだった。
 
 
photo  さらに、スクールの子供達と、父兄が作ってくれたメッセージカード。 そして、皆が折ってくれた、合計 1万8千羽もの折り鶴。 実は、チームのファンやスクール生の親が一丸となり、各試合会場で折ってくれていたのだ。
 
 
photo  その日から下地の心が、動き出した。 折り鶴の数と同じ、1万8千回を目指して、毎日、足を動かすことを自らに課した。 もちろん、感覚のない足が動くはずはない。 だが、下地は止めなかった。 一羽一羽の思いに答えるように「動け、動け」と念じながら…。 そして4日後…何と足首が動いたのだ!
 
 
photo  そして…倒れてから約4ヶ月が経った、この日。 新潟アルビレックスBBのホーム最終戦が行われる会場で、試合前にあるセレモニーが行われた。 大観衆の前に現れたのは…自分の足で歩く下地の姿だった!
 そうこれは、アシスタントコーチである彼のためだけに行われた、異例の復帰セレモニー! そこには…彼の復活を願い続けた恩師・安里の姿もあった。 病いに倒れること3度、再起不能とまで言われた下地が、奇跡の復活を果たしたのだ!
 
 
photo  当時を振り返り、下地さんはこう話してくれた。
「出て行った瞬間には抑えられない感情が出てしまって、人の温かさだとか 思いだとか 語らずに伝わって来る…その感情が伝わってきたのが分かったので、思わず泣いてしまった。今でもそうなっちゃうんですけど、あまり最近 涙もろくなかったんですけど、あの時の正直な気持ちは伝わりましたね。あれがなければ、僕は多分今日ここにも立ってないですし、バスケットの指導者にはなっていなかったのかなという思いはありますね。何か動かされるというのは、人の心なんだな、想いなんだなというのは本当に伝わって…あの時、正直人の優しさってこんなに凄いもんなんだなというのは感じました。」
 
 
photo  3度に渡って死の淵から蘇り、奇跡の復活を遂げた下地さんは… その後も2年間、新潟アルビレックスBBで、アシスタントコーチとしてチームに貢献した後、同じプロリーグの富山グラウジーズのヘッドコーチに就任。 名実ともに指導者としての地位を確立した。 そして…チームを史上初のプレイオフ(優勝決定戦)進出へと導いたのち、惜しまれつつも退団。
 
 
photo  現在は、地元沖縄でもう1つの夢に挑戦している。 それは…子供達にバスケットを教えること。 しかも驚くべきことに、下地さんは松葉杖なしで歩けるようになっていた。 厳しいリハビリの末、ここまで回復を遂げたのだ!
 
 
photo  その傍らには…恩師・安里さんの姿も…一緒に指導を行うこともあるという。 師から教え子へ。バスケットへの情熱は、受け継がれていく。