2月5日 オンエア
母とつかんだ夢★前人未到!日本一への挑戦
 
 
photo  200キロ以上の距離を時速50キロで駆け抜ける過酷な自転車競技、ロードレース。 今から5年前、日本ロードレース界の頂点を決める大会に特別な思いを胸にスタートラインに立つ1人の選手がいた。 宮澤宗史、32歳。 彼にはどうしても勝たなくてはならない理由があった。 息子は母のために、母は息子のために…2人の強い思いが前人未到の偉業を成し遂げることになる。
 
 
photo  長野県に生まれた崇史が6歳の時、父・幸弘さんが病気で他界。 以来、母の純子さんが事務員として働きながら、女手一つで崇史と2歳年上の姉、妙子を育ててきた。 生活は苦しく、服はいつも従兄弟のお下がりだったが…崇史は母の苦労などおかまいなしだった。
 そんな崇史が中学生だったある日のこと。 ロードレースの最高峰、ツール・ド・フランスの映像を見た崇史は魅了された。 自転車をねだる崇史だったが…家にそんな余裕はなかった。
 だが…ある朝、起きると新品のマウンテンバイクが置いてあった。 実は、それは母の職場の同僚が買ったばかりのマウンテンバイクを頼み込んで借りてきたのだ。
 
 
photo  さらに純子さんは崇史を連れ出すと、いきなりマウンテンバイクの大会に参加させてしまった。 とはいえ、出場者は大人の経験者ばかり、自転車競技など一度もやったことがない崇史が叶うはずがなかった。
 だが!結果は、出場者290名中、27位。 レース初挑戦にも関わらず、経験者たちを押さえ、上位に食い込んだのだ!!
 その後、ようやく自分の自転車を買ってもらうと、取り付かれたように毎日ペダルを漕ぎ続けた。 各地の大会に参加するようになると、崇史の送り迎えは純子さんの役目になった。
 
 
photo  しかし、自転車競技には多額の費用が必要だった。 タイヤやチェーンの消耗品に年間6万円。 そして、年20試合は行なわれるレースの参加費が家計に重くのしかかった。 だが…純子さんは、生活の中で親子の会話が生まれたのが嬉しかったという。
 崇史さんは自転車部のある、長野工業高校に入学。 17歳で世界選手権(ジュニア部門)で22位になるなど、華々しい活躍をみせ、その3年後には若干20歳で日本代表に選出され、瞬く間にトップ選手に成長を遂げていった。 所属する実業団チームでも中心選手として活躍し、夢の日本一へもう少しで手が届く…はずだった…
 
 
photo  純子さんが突然 病に倒れたのだ! 病名は、原発性硬化性胆管炎。 これは、肝臓から出る胆管に炎症が発症し、肝硬変などを起こす難病。
 さらに悲劇はそれに留まらなかった。 余命1年〜2年という宣告を受けてしまったのだ。 健康な人間の肝臓の一部を切り取り、患者の肝臓に移植する生体肝移植…それが残された唯一の方法だった。
 法律により、生体肝移植のドナーは患者の配偶者や親族など近親者に限られている。 さらに、移植に必要な肝臓の大きさを考えると、姉の妙子さんでは手術のリスクが高い。 だが…もし崇史がドナーになった場合、自転車競技に復帰するのは難しいというのだ。
 
 
photo  ドナーの肝臓は2〜3年で元の大きさに戻り、機能も元通りに回復する。 だが、崇史にとってこの手術は、別の危険性をはらんでいた。 全力でペダルを漕ぎ続ける自転車競技には、足だけでなく全身の筋力が必要。 中でも、足を押し出す腹筋の力は特に重要とされているのだ。
 移植のために開腹手術をすれば、腹筋を切断することになる。 それはアスリートにとって、致命的な問題だった。
 
 
photo  だが、崇史さんはためらうことなく肝臓提供を申し出ていた。 しかし…純子さんは移植手術を拒否したのだ。 実は、純子さんも知らされていたのだ…移植手術が崇史さんの選手生命を絶ってしまう可能性が高いことを。
 しかし…崇史さんが自転車競技を続けてきたのは、母・純子さんの笑顔をみるため。 そのためには、どれだけ辛くても頑張ってこれた。 だから、純子さんが死んでしまったら、意味がないのだ。 崇史さんは母・純子さんに手術を受けてくれるように懇願した。
 
 
photo  そして、2001年9月11日。 競技シーズンが終わるのを待って、移植手術が行なわれた。 崇史さんから肝臓の3分の1が切除され、純子さんへ移植された。 拒絶反応もなく、肝臓は順調に機能した。
 
 
photo  移植手術からわずか1か月後、崇史さんは傷口が塞がるとすぐにリハビリを開始。 だが、その辛さは想像以上だった。 歩くことが難しいほど、筋力が失われていた。
 また、腹筋の切断が影響を及ぼしたのは、筋力だけではなかった。 全身の運動能力までもが低下していたのだ。 それでも、手術から2か月後には、1日100キロ以上の走行練習を開始。 必死にペダルを回し続けた。
 しかし、レースに出ても…ここぞというところで力がでない。 ついに所属していたチームを解雇されてしまった。
 
 
photo  そこで、崇史さんは驚くべき行動に出た。 単身フランスに渡り、アマチュアチームに所属。 再びゼロから走り始めたのだ。 失われた筋力を取り戻すため、毎日3時間、腹筋を鍛え続けた。
 
 
photo  そして移植手術から9年後。 日本ロードレース界の頂点を決める、全日本選手権。 選ばれた者だけが立てるスタートラインに、32歳になった宮澤崇史の姿があった。
 実は手術から4年後、崇史さんはついにプロチームに復帰。 さらに、その3年後の2008年には、北京五輪の日本代表2名にも選出され、見事復活を遂げていたのだ! だが、そんなかれでも唯一手に出来ないでいたのが、日本の頂点を決める全日本選手権のタイトル。 そう、母に誓った日本一の称号だった。
 
 
photo  ゴール前で母・純子さんが見守る中、出場者157人、196.8キロのコースを走破する過酷なレースはスタートした。 起伏の激しいコースにリタイヤする選手が続出。
 そして、スタートから5時間。 先頭集団に残ったのは、わずか5名。 その中に、67番、崇史さんの姿があった。
 勝負の行方は最後の直線まで もつれ込んだ。 全選手がラストスパートをかける中、抜け出したのは…崇史さんだった。 そして…ついに崇史さんは日本ロードレース界の頂点に立ったのだ!! 母・純子さんとの約束を果たした瞬間だった。
 
 
photo  全日本選手権で、ついに夢の日本一を手にした崇史さん。 その後、ヨーロッパツアーでステージ優勝を果たすなど、世界の舞台で活躍。 そして昨年10月、「ツール・ド・フランス」さいたまクリテリウム、この大会を最後に現役を引退。 その時、花束を手渡したのは、母・純子さんだった。
 現在、崇史さんは、クラブチームの監督して後進の指導にあたる一方、自らの体験を伝える 講演活動を行っている。 そして純子さんは、生体肝移植手術を受けてから、14年目になる現在も長野で元気に暮らしている。