1月23日 オンエア
五輪秘話★日の丸掲げるため!テストジャンパーの奇跡
 
photo  今から7年前に行われた長野オリンピック。 日本のスキージャンプチームは、ラージヒル団体で初の金メダルを獲得。 中でも印象的だったのは、原田選手のこの言葉。
「俺じゃないよ みんななんだ みんな」
 「みんな」という言葉は、一緒に飛んだ船木、岡部、斉藤の3選手のことだと誰もが思った。 だが、実はこの「みんな」という言葉にはもう一つの意味が込められていた。 これは、命の危険も顧みず、日本に金メダルをもたらした知られざる25人の物語。
 
photo  1998年2月17日、悪天候の中、スキージャンプ団体戦は行われた。 ジャンプの団体戦は、各国4人の選手が4人ずつ飛び、その合計点で争われる。 ジャンプ台から120mの距離には、K点と呼ばれる飛距離の基準点がある。 メダル獲得には、このK点を超えるところまで大きく飛び、どれだけポイントを稼ぐかが重要となる。
 当時最強のメンバーを揃えた日本代表は、団体初の金メダルを狙い、国民の期待を一心に集めていた。 岡部、斉藤、共にK点超えの大ジャンプを決め、日本は早くもトップに立った。
 
photo  次のジャンパーは原田。 国民の期待も高まっていた。 この時、原田の姿を特別な想いで見守る男がいた。 スキージャンプ、元日本代表・西方仁也。
 長野オリンピックの前に行われたリレハンメルオリンピック、この大会に西方は原田と共に代表選手として出場していた。 この時、日本は西方や葛西の活躍で史上初となるジャンプ団体の金メダルを目前としていた。 そして・・・最後はエース原田。 普段通りに飛べば全く問題のない距離だったのだが、失敗。 原田の失敗で日本は2位に・・・手の届く距離まできていた金メダルを逃してしまったのだ。
 
 西方は、目標を4年後、長野でのオリンピックに切り替え練習を再開。 しかし、突如襲った腰の故障により、本来のジャンプが出来なくなり、オリンピックの選考に値する大事な大会で、なかなか結果を出せないでいた。 一方、原田は世界選手権などの国際大会で華々しい活躍を続けた。
 そして迎えた長野オリンピック開催の年。 日本の選手層は厚く、西方は代表メンバーから漏れたのである。 photo さらに、テストジャンパーとして長野オリンピックに参加して欲しいと依頼された。
 テストジャンパーとは、競技の前に飛ぶ裏方のジャンパーのこと。 その飛び方を見て、ジャンプ台に危険がないかを確かめたり、スピードが出過ぎないようにスタート位置を調整したりする。 さらに競技中、雪が降った時などには、飛距離を確保するため、テストジャンパーが何度も飛び、ジャンプ台の雪を踏み固める。 そのため、多い時は20人以上も集められるのだ。
 
photo  オリンピックは、選手として選ばれるはずだった舞台。 ライバル達が晴れ姿を見せる中で裏方としてジャンプをすることに西方が抵抗を感じないはずはなかった。 だが、西方は自分の中でオリンピックに終止符を打つために、テストジャンパーを引き受けた。
 そして、長野オリンピックまで後1週間となった日、テストジャンパー25人が集められた。 そのほとんどが、オリンピック代表を目指した一流のジャンパーである。 だが、代表に選ばれた選手を見るたび、自分もあの場所にいたかったという想いにかられた。
 そんなある日、原田にアンダーウェアを忘れたから貸して欲しいと頼まれた。 その時、ライバルとして競ってきた原田達が遠い存在に思えたという。
 
 そしていよいよ、オリンピックが開幕。 西方は複雑な想いで原田のジャンプを見守っていた。 photo 1本目・・・・失敗。リレハンメルの悪夢が再び起こった。 原田の79.5mというミスジャンプで日本はトップから4位に順位を下げてしまった。
 西方が原田の様子を見に行くと・・・原田はオリンピックの開幕直前、西方が貸していたウェアを着ていた。 しかも、原田のグローブは4年前のオリンピックで金メダルを逃し、今回団体の試合に出場できなかった葛西選手のものだった。 原田は、西方や葛西と共に飛んでいたのだ!!
 
photo  その時ジャンプ台では、日本チームの金メダル獲得を阻む、もう1つの事態が起こっていた。 全チームの1本目が終わった時点で日本は4位のまま。 競技は2本目のジャンプに入ったのだが、吹雪により選手達が滑る2本の溝に雪が積もり、スピードが出にくくなり、飛距離が伸びない状態になっていたのだ。 このままではジャンプ競技自体が成立しなくなってしまう。 そして、競技はついに中断に追い込まれた。
 
photo  再開か、中止か、それを決めるのは4人の競技委員だった。 もし中止となれば、1本目の順位が最終的な結果となり日本は4位、悲願の金メダルへの道は断たれることになる。 全ては競技委員の話し合いにかかっていた。 メンバーは暫定4位の開催国 日本、1位のオーストリア、2位のドイツ、3位ノルウェー、奇しくも1回目のジャンプを終えた時点での上位4カ国だった。
 暫定1位のオーストリアは、中止になれば金メダルが確定するだけに当然、中止と主張した。 暫定2位、3位のドイツ、ノルウェーもメダルが確定するとあって、話は中止に傾いていた。 このままでは、日本の4位が確定する。 その時、日本委員が中止を反対、競技の続行を訴えた。
 
 そこで、テストジャンパーにジャンプしてもらい、競技を続行できるかどうか確かめることになった。 しかし、それはあまりにも過酷な挑戦だった。 高さ138mのジャンプ台から滑空し、時速90km以上スピードで飛び出すスキージャンプ。 photo ましてや、吹雪で視界が悪い上、2本の溝には吹雪で雪が積もり、最悪の状態。 もしジャンプに失敗すれば命さえ危ういのだ。
 しかも、もし転倒すれば競技続行は危険とみなされる可能性が高い。 それはすなわち、悲願の金メダルが絶たれることを意味していた。 あまりに重いプレッシャーが25人に伸し掛かっていた。
 その時、西方が他のテストジャンパー達を鼓舞した! すでに西方の中でわだかまりは消えていた!!
 
photo  最初にジャンプを行うことになったのは、高校生ジャンパーの梅崎慶太だった。 だが、天候はさらに悪化、果たして・・・。 完璧な着地を決めた。 すると今度はジャンパー達が間を置かずにスタート台に。 これは、西方の作戦だった。
 雪が降り積もる前に溝を固めていけば、飛距離は伸びてくるはず。 飛距離を伸ばし、競技に支障がないことをアピールするのだ。 断続的に降る雪の中、溝を固めるのは困難を極めた。 さらに、転倒が許されないというプレッシャーの中、テストジャンパー達は次々と跳躍した。 そこには拍手も歓声もなかった。 日本の金メダルのために、彼らが必死に戦っていることを知る者はいなかったのだ。
 そして、何と24人が無事にジャンプを成功。 転倒した者は一人もいなかった。 皆が恐怖心とプレッシャーに打ち勝ち、自分の役割を果たしたのだ。
 
 最後は西方だった。 ここにきて雪はさらに勢いを増す。 しかも、この時 彼はある重大な事実を知らされていなかった。 photo それは、西方が代表選手並みの大ジャンプをしたなら、競技再開を認めるというものだった。
 そんな条件など知らないまま、最後のテストジャンパー西方がジャンプ台に登った。 これ以上ないという悪条件、果たして西方は大ジャンプをみせられるのか?
 それは・・・代表選手をも超える大ジャンプだった!! 飛距離はK点超えの123m!!!
 そして、競技は再開された!! 日本の逆転金メダルを信じて、25人のテストジャンパー達が夢を繋いだ瞬間だった。 西方は原田に「俺たちは自分の仕事をやったぞ、次はお前の番だろ」と声かけたという。
 
photo  暫定4位の日本が金メダルを獲得するには、120m地点にあるK点を超え、得点を稼ぐ必要がある。 そして、日本チームの2本目のジャンプが始まった!! 1番目の岡部、2番目の斉藤、共にK点を超えた大ジャンプ!!
 そして、3番目の原田。 137mの大ジャンプ!日本はトップに躍り出た!!! そして最後のジャンパー 船木。 上位3か国の競技はすでに終了、日本が金メダルを獲得するには115m以上飛ぶ必要があった。
 結果は・・・125mの大ジャンプ! 日本は悲願の金メダルを獲得した!
 
photo  西方さんは、自身が穫ったリレハンメルの銀メダルより、長野の金メダルのほうが感動したという。
原田選手の「俺じゃないよ みんななんだ みんな」。
この言葉は、他の3人のみならず、金メダルへの夢を繋いだ25人のテストジャンパーへ向けた言葉でもあったのだ!!
 
photo  2014年2月7日、いよいよ開幕するソチオリンピック。 今回男子のジャンプの団体には、5名の代表選手が決定。 中でも先日ワールドカップで優勝を果たした葛西選手は、実に7大会連続のオリンピック出場となる。
 長野以来、16年ぶりにメダル獲得が期待されるスキージャンプ。 そんな選手達を見守るのが、代表選手のコーチを務める原田雅彦さんだ。
「指導者として裏方として私も選手達の役に立ちたい」と原田さんは言う。 果たして今回は、どんなドラマが待っているのか? あの感動を再び!!