PARA☆DO! 〜その先の自分(ヒーロー)へ〜

毎週水曜 よる10時54分 放送

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2017年3月

3月29日(水)

木村敬一選手

(水泳)

木村選手は、先天的な疾患で2歳の時に全盲になる。水泳を始めたのは小学4年生の時。中学から上京し、筑波大学付属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)へ進学。研鑽を積んで2008年北京に日本選手団最年少の高校3年生、17歳出場。開会式旗手を務めた2012年ロンドンで初めてメダルを獲得。そして、2016年リオ大会では4つのメダルを獲得し、日本パラ水泳界のエースと呼ばれるようになった。東京パラリンピックでの金メダルが期待される木村選手だが…実は、彼は今、東京大会に出場するかで悩んでいる。自国開催での東京パラで金メダルはもちろん目標にしたいが、リオで感じた重圧と再び対峙する準備がまだできないというのだ。私たちには想像できないメダリストの重責…。そんな苦悩とは関係なく、メダリストとして多忙な日々が続く。この日訪れたのは、東京にある中野区立多田小学校での講演会。壇上に立ち、アスリートとしての経験や障がいについて話す。子供たちから多くの質問が飛んだ。その中の一つ「70階立てのビルで30階に行きたい時、どうするんですか?」木村選手は、持ち前のユーモアで笑いを交えながら子供たちに答える。「エレベーターに点字もなく、聞く人もいなければ、適当にボタンを押してみる。上がりすぎたら下がるし、下がりすぎたらまた上がる(笑)」木村選手の強みの一つがこの明るい性格と物怖じしない度胸なのかもしれない。今は行き着く先がわからなくても、彼ならきっと、自分の目指すべき道を切り拓いていくのではないだろうか。

木村敬一(キムラケイイチ)
1990年9月11日生まれ 26歳 滋賀県出身 東京ガス所属
高校3年生で初めて出場した2008年北京パラリンピックでは5種目に出場し、100m平泳ぎと100m自由形で5位、100mバタフライで6位に入賞し、2012年のロンドンパラリンピックでは、100m平泳ぎで銀メダル、100mバタフライで銅メダルと念願のメダルを獲得。2014年の仁川アジアパラリンピックでは見事4冠を達成した。そして、2016年リオパラリンピックで、50m自由形と100mバタフライで銀メダル、100m自由形と100m平泳ぎで銅メダルの4日連続で4個のメダルを獲得するという快挙を成し遂げた。

3月22日(水)

マクドナルド山本恵理選手

(パワーリフティング)

先天性の二分脊椎症で、幼い頃に受けた手術の影響で足に障がいを負う。水泳選手としてパラリンピックを目指していたが、16歳の時にプールサイドでケガを負い水泳競技を断念することになる。しかし、パラリンピックへの思いは強くパラリンピックを裏から支えるスタッフとして働き始める。
2010年カナダに留学、2012年のロンドンパラリンピックでは競泳選手の通訳として派遣され、肌でパラリンピックを感じた彼女の中で「またスポーツをしたい」という思いが強くなったという。カナダで知人に誘われアイススレッジホッケーを始めると、2013年にはカナダ代表に選ばれるまでに。しかし、女子アイススレッジホッケーはパラリンピックの種目にはなく、またしてもパラリンピックには手が届かなかった。2013年、カナダ人の男性と結婚し、マクドナルド山本恵理となる。その後日本に帰国。日本財団パラリンピックサポートセンターで働きだし、パラスポーツ体験イベントでたまたまやってみたパワーリフティングでいきなり40kgを挙げスカウトを受ける。以降、仕事を続けながらもパワーリフティングでの東京パラリンピック出場を目指している。

マクドナルド山本恵理(マクドナルドヤマモトエリ)
1983年5月17日生まれ 33歳 兵庫県出身
日本財団パラリンピックサポートセンター所属
愛称はマック。目下の課題は減量。50kg級に体重を抑えつつも筋肉を維持するべく、食事には細心の注意を払っている。

3月15日(水)

田口亜希選手

(射撃)

午前7時過ぎ、羽田空港国内線の出発ロビーで田口亜希さんが岡山行きの便の出発を待っていた。補助の方はいない。一人、車いすで日々、会議や講演、イベントに出かけていく。現地に到着したら「一番最後に飛行機から出ますので到着口で待っていてください。」そう言って笑顔で乗り込んでいった。
そんな田口さんは、今でも鏡に映る自分の車いす姿に違和感というか、納得のいかない独特の感情があるという。「なぜ、私、車いすなんだろう。」そう思うそうだ。25歳の時に脊髄の病気で車いす生活になってから随分と時間が経ってもなかなか割り切れない感情があるという。日の丸を背負いアテネ、北京、ロンドンのパラリンピックはもとより、世界大会で輝かしい活躍をしてきたアスリートの姿からは、私たちには想像しにくい葛藤の中で日々を過ごしているのだと。車いす生活となり、未来への希望を失いかけたとき出会った言葉が田口さんにはある。パラリンピックの父と呼ばれるルートヴィヒ・グッドマン(神経学者)の言葉「失くしたものを数えるな、残されたもの最大限に活かせ」まさにこの言葉を体現しているかのような現在の活躍。
割り切れない感情を抱えながら、それでも残された自分の持てる力を最大限に活かそうと、2020年に向かう知力とともに、パラスポーツに理解のある企業や団体と、一般の人を結びつける接着剤のような役割を自ら率先して引き受けている田口さん。職場や周囲の理解にも助けられパラスポーツの素晴らしさを伝える日々はまだまだ続いていく

田口亜希(タグチアキ)
1971年3月12日生まれ 46歳 大阪府出身 日本郵船所属
郵船クルーズに入社後25歳のときに、脊髄の血管の病気で車いす生活となる。種目はエアライフル伏射10m男女混合とフリーライフル伏射50m男女混合。アテネ、北京、ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場し、アテネでは7位、北京では8位入賞。2010年アジアパラ競技大会では銅メダルを獲得した。2016年五輪招致活動では最終プレゼンターを務め、2020年五輪招致における国際オリンピック委員会(IOC)評価委員会の前でプレゼンテーションを行った。現在は、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員、エンブレム委員のほか、日本パラリンピアンズ協会理事などを務める。

3月8日(水)

佐藤友祈選手

(陸上)

車イスでの陸上競技を始めてわずか4年、佐藤友祈選手はリオの舞台に立ち、2つの銀メダルを獲得する偉業を成し遂げた。その道のりを支えたのは、積み重ねた努力、そして、揺るがぬ「自信」だった。
21歳の時、脊髄炎を発症して両足と左腕にまひが残った。「何で自分が…」と最初は引きこもりがちだった佐藤選手を奮い立たせたのは2012年のロンドンパラリンピックの光景だった。風を切って走る選手の姿に憧れ、さっそく数ヶ月後に陸上競技を始めた。その時佐藤選手は「4年後には自分もあの舞台に立ってメダルを獲る!」と周りの人に宣言したという。絶対にその夢を叶えてやるという「自信」があったからだ。うまくいかないことを恐れず、自分の夢を言葉にして人に伝えることで可能性はどんどん広がった。2008年の北京、2012年のロンドンに出場した松永仁志選手(グロップサンセリテ選手兼監督)を頼り、2014年から本拠地を岡山県に移し、徹底的に練習した。「僕はリオでメダルを獲りたいんです。自信はあります」と、松永選手に意志を伝え、先輩からもらったアドバイスに真剣に取り組んだ。そしてついに、2016年リオの舞台で銀メダルをつかみ取った。だが、佐藤選手の戦いはまだ終わっていない。次は自分のためだけじゃなく、応援してくれる家族や仲間、支えてくれる全ての人のために、2020年東京での金メダルを誓う。
そんな佐藤選手に陸上競技の魅力を訊くと、「いつも違う風を感じるんですよ。向かい風だったり、追い風だったり、時には無風だったり。走っている方向は変わらなくても、常に風向きは変わるんです。人生と同じように、きつい時もあれば、勢いに乗れる時もある。その変化もこの競技の大きな魅力だと思います」と笑顔で語ってくれた。どんな時も自分の可能性を信じて前進してきた佐藤選手は現在27歳。
400mと1,500mの世界最高タイムを狙い、その先の東京2020へと、風を切って突き進む。

佐藤友祈(サトウトモキ)
1989年9月8日生まれ 27歳 静岡県出身 グロップサンセリテ所属
2015年の陸上競技世界選手権大会(ドーハ大会)400m(T52クラス)で金メダルを取ると、翌年2016年のリオデジャネイロパラリンピック 陸上(T52クラス)400mで銀メダル。1,500mで銀メダルを獲得。今後は400mと1,500mの世界最高タイムを狙う。

3月1日(水)

鈴木猛史選手

(アルペンスキー)

ゴーグルを外すと、人懐っこい表情が現れる。出会った人に警戒心を抱かせないにこやかな表情からは、100分の1秒を競い合うアルペンレーサーの厳しい世界に身を置くアスリートの姿を想像することはできない。今回の全日本合宿では、雪のコンディションがあるため練習は朝8時から11時30分までの3時間。午後になると雪面が柔らかくなり、練習には向かない。そんな限られた時間のなかで鈴木選手は、新たな挑戦を試みていた。これまで2度のワールドカップ総合優勝を果たし、世界の頂点を知る男に新たなライバルが出現したからだ。今シーズンは得意なスラローム(回転)で優勝がなかった鈴木選手、ようやく第6戦にして優勝を手にした。しかし、その優勝は満足のいくものではなかった。その原因は、今シーズンめきめきと力をつけてきたオランダの17歳イェロン・カンプスフレウル(Jeroen KAMPSCHEUR)選手の存在。優勝は2本滑ってその合計タイムで決まるが、鈴木選手が優勝した第6戦、イェロン・カンプスフレウル(Jeroen KAMPSCHEUR)選手は2本目で転倒し、鈴木選手がトップタイムとなった。もし転倒がなかったらと考えると…。中学3年の時から、世界と渡り合ってきた鈴木選手のスキーテクニックは、チェアスキーでは珍しく、逆手でポールをなぎ倒しながら直線的に滑るスタイル。体をポールに当てながら滑る他の選手のスタイルとは異なった滑りでタイムを伸ばし、勝利を手にしてきた。今シーズンは17歳のライバルの出現によりタイムで下回ることが多くなる中、鈴木選手は新たなスキースタイルで、若いライバルを倒そうとしている。それは、得意の逆手と他の選手が使う体をポールに当てながら滑るスタイルとの融合。鈴木選手は言う。「ぎゃふんと言わせたんですよ」「おとなは、強いぞって」「ものすごい負けず嫌いなんですよ」。そうニコニコしながらさらりと言うが、その言葉の中に金メダリストのプライドを強く感じ、鈴木スペシャルを完成させて再び世界の頂点を目指す新たな挑戦に本物のアスリートの姿を見た。

鈴木猛史(スズキタケシ)
1988年5月1日生まれ 28歳 福島県出身 KYB株式会社所属
9歳の時に交通事故で両大腿切断。パラリンピックはトリノ、バンクーバー、ソチの3大会連続出場。2010年バンクーバーパラリンピック大回転で銅メダル獲得。その後、2012~2013年ワールドカップで年間総合優勝した。2014年ソチパラリンピックでは、回転で金メダル、滑降で銅メダルを獲得。同年、福島県民栄誉賞受賞、紫綬褒章受章。更に2014~2015年に2度目のワールドカップ年間総合優勝。