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第16回 柔道界の内外から見たヘーシンクVSルスカ最強論争

古くからの柔道ファンにとっては、柔道史上最強の外国人選手といえば、「アントン・ヘーシンクVSウィリエム・ルスカ」の両オランダ人柔道家の「最強論争」が永遠のテーマとなっています。

1934年4月6日生まれのアントン・ヘーシンク、198センチ、108〜125キロ。
1940年8月29日生まれのウィリエム・ルスカ、190センチ、108〜115キロ。
年齢差は6歳。対格差はヘーシンクがやや長身ながら全盛期の体重は互いに遜色なく甲乙つけがたいというところです(体重は「公称」。世界初優勝から現役引退にかけての体重幅としました)。

ヘーシンクは14歳で柔道を始め、柔道以外にも10歳の頃から丸太を担いで走るトレーニングで筋力と持久力を養い、自転車、サッカー、水泳、レスリング、ウェイトトレーニングなどで体を鍛え、日本では天理大学や講道館を中心に武者修行。「私の体は頭の先からつま先まで鍛えられていないところはない」と豪語するほど強靭でしなやかな肉体を持っていました。柔道での実績は61年パリ世界選手権(体重無差別)優勝、64年東京五輪無差別級優勝、65年リオ世界柔道重量級優勝。欧州選手権では無差別級優勝10回、重量級優勝6回、段位別優勝4回の計20回も個人優勝を果たしています。

ルスカは「第2回コラム」にも書きましたが、海軍出身で、船員の訓練、水泳、自然や身近な器具を利用したトレーニングなどで体を鍛え、寝技の強化のためにレスリングも学びました。日本では岡野功の主宰する正気塾に住み込んで修行を重ね、警視庁、日大、明大、天理大などへの出稽古に頻繁に通い、ヘーシンクに劣らず心身を鍛えに鍛え抜きました。
柔道での実績は67年ソルトレーク世界柔道重量級優勝、71年ルドウィグスハーフェン世界柔道重量級優勝、72年ミュンヘン五輪重量級&無差別級優勝。欧州選手権では無差別級優勝2回、重量級優勝5回の計7回優勝です。

ルスカが柔道を始めた年齢については説明が少し長くなります。というのは説が2つに分かれているからです。11歳説と20歳説と極端に食い違っています。本人は常々20歳、または21歳で始めたと言っています。あるプロレス関係書籍のインタビューでは「高校を卒業してから海軍に4年間在籍し、21歳で韓国人の師範に付いて柔道を始めた」と答えています。また、プロレス引退後の「近代柔道」のインタビューでは「20歳の時に海軍で始めた」と答えています。だとすれば、「20〜21歳」が正しいと思われますが、実はそう単純には割り切れないのです。1976年にアントニオ猪木と格闘技世界一決定戦を行って以来、ルスカのプロとしての公式発言が「20歳で始めた」ことになっていましたので、その20歳発言をずっと貫き通しているだけという可能性もあるからです。

その根拠ですが、ルスカの欧州での師匠であった平野時男師範がルスカが11歳で柔道を始めた当時の詳細を克明に記した文献があるのです。どう見ても、平野師範がウソ偽りを言っているようには思えません。しかも、平野師範は既に故人となられていますが、上記の記事を書いた昭和46年にはまだ49歳でしたので、記憶違いということもほぼ有り得ません。私は平野師範の記述の内容から判断して、「11歳開始説」を支持します。

それでは、何故ルスカは「20歳に始めた」と敢えて流布したのでしょうか。
ルスカが類まれな天才であるのは認めるものの、20歳というのは柔道選手のスタートとしては、あまりにも遅すぎます。
読者の皆さんにはまず最初に、これから記すことは、推測の域を出ないものであることをお許しいただきたいと思います。

私はこれはルスカ本人もしくは新日本プロレスが書いたシナリオではないかと思っているのです。「プロとして」のルスカの発言は要約すると終始一貫下記の通りです。

(1)俺はヘーシンクよりもずっと強い。乱取りではヘーシンクを10回以上も投げたが1度も投げられたことはない。
(2)オランダでは5つの柔道団体が乱立し、主流団体(NJJB)のヘーシンクは東京五輪に派遣されたが、不当にも、反主流団体(NAJA)の俺は最終予選で全勝だったにもかかわらず、別の選手が重量級代表(ヘーシンクは無差別級)に選ばれた。
(3)ヘーシンクは意図的に俺との対戦を避け、公式戦で対戦したのは67年欧州選手権無差別級の一度だけだ。この試合は俺が攻勢に出たが、ヘーシンクが守りを固めたのでポイントを奪えず、一度足払いで倒したが判定で負けにされた(実際は「ヘーシンクが盛んに寝技に引き込もうとしたがルスカが応じず、ヘーシンクが横捨身でルスカを一度ころがしてポイント。ほとんど差はなかったもののヘーシンクが貫禄勝ち」と報道にある)。
(4)その後、俺はヘーシンクに何度も挑戦状を出したが、奴は対戦に応じない。俺は最初に猪木を倒したら、次はヘーシンクを追いかけて必ずやっつけてやる。

ルスカの発言の意図は、(1)の「俺はヘーシンクよりも強い」というプロとしてのアピールだけだと思うのですが、それをルスカが言うと、必ず下記のような突っ込みを受けることが予測されます。それは簡単に言えば、「だったら柔道時代に何でヘーシンクに勝てなかったんだ。同じ国で、ましてや6歳しか年齢は違わないんだから、戦うチャンスはいくらでもあっただろう!」という指摘です。もし、そう言われたらルスカはグーの根も出ません。

そこで、用意された口実が「(2)〜(4)」です。しかし、この口実も「穴だらけ」です。
「反主流団体にいたためチャンスを与えられなかった」というのは、ある意味では正しかったことはいくつかの文献で証明されていますが、「全くチャンスを与えられなかった」わけではありません。現にルスカは東京五輪の代表には選ばれませんでしたが、欧州選手権や東京五輪閉会式翌日に行われた国際親善大会、東京五輪翌年の世界選手権には出場しています。ルスカが「結果」を残せなかっただけなのです。
ルスカ本人はプロレス関連書籍掲載のインタビューで「東京五輪直後の大会で優勝した。翌年の世界選手権には出場していない」と全く事実と反することを言っていますが……。
ルスカが「プロとして」自身のプロフィールを偽ろうとしていたことは明白です。

64年欧州選手権団体ではオランダVSソ連の決勝戦になり、2−2からの大将戦はルスカ対ソ連のエース、アンゾル・キクナーゼとなり、キクナーゼが優勢勝ちを収めています。そればかりか、個人無差別級でもルスカはキクナーゼに敗れています。また、ルスカは東京五輪直後に行われた尼崎の国際親善大会1回戦で岡野修平(中央大→大谷重工→ブラジル監督)の寝技を再三逃れるなど健闘したものの最後は払い腰で投げられ、「腕力は一級品だが、技術はまだまだ」との評を受けています。65年リオ世界選手権でも2階級に出場し、重量級3回戦でキクナーゼ、無差別級1回戦でアルフレッド・ダグラス・ロジャース(カナダ)に優勢負けを喫しています。以上の通り、ヘーシンクに次ぐ強豪選手だったキクナーゼ、ロジャースには連戦連敗であったことがわかります。
この結果が示すように東京五輪前後のルスカはまだまだ未熟な選手であったことは明らかです。東京五輪オランダの重量級代表に、その時点でルスカが代表に選ばれなかったのは「不当」とは言い切れないのではないかと思いますし、仮に出場したとしても優勝は覚束無かったと思います。

「ヘーシンクが意図的に対戦を避けた」、「何度も挑戦状を出したが対戦に応じない」というのも、どう見ても「プロレス業界的な発言」です。そもそも、柔道の試合に「挑戦状」など存在するはずもありません。斉藤仁が山下泰裕に挑戦状を出したという話を聞いたことがありますか?

そこで、「20歳で柔道を始めた」という発言が重要になってくるのです。ルスカ20歳というと1960年のこととなりますので、東京五輪の行われた64年はまだ柔道を始めて4年ということになります。もしも事情通に「弱かった頃のルスカ」の話を追求されたら、「まだキャリアが浅かったので未熟だっただけだ。ヘーシンクとは選手としてのピークの時期がずれていただけで実力が劣っていたわけではない」というロジックが成立します。つまり、「(2)〜(4)」+「20歳で柔道を始めた」でルスカのプロとしての発言は完璧なものになるのです。もしも私の推測通りだとしても、プロは「自分を高く売る」のが仕事ですので、ルスカが間違っているというわけではないと思いますが。

以上のように、1965年以前においては、ヘーシンクがルスカの実力を上回っていたのは疑うべくもありません。

1967年欧州選手権無差別級準決勝の直接対決は、ヘーシンクが東京五輪後、映画出演、65年リオ世界柔道重量級優勝、引退そしてカムバックという経緯を経て実現したもので、ヘーシンクはその時点では現役続行の動機も無く、肥満が目立ち、ベストコンディションとは程遠い状態だったと言われています。ヘーシンク33歳、ルスカ26歳の時の対戦ですが、ヘーシンクが判定ながら勝利を収め、ヘーシンクが完全に引退するまでにルスカの実力がヘーシンクを追い越すことはなかったのです。

そもそも映画に出演した時点で、ヘーシンクに現役続行の意思は希薄であったことは間違いありません。何せ、このイタリア映画「聖書の裁き」(サムソン役)の出演料は何と25万ドル(当時の邦貨で9千万円)と外電が伝えているのです。俳優として映画に出るというのは完全に「プロ活動」なので、現役にカムバックできたというのは不可解です。当時のアマチュア規定は一体どうなっていたのでしょうか。オランダ体協が依然としてヘーシンクのアマ資格を認め、IJFもそれを受け入れたというのです。彼は現役中、何度もアマチュア規定違反を犯したと言われ、ヘーシンクの東京五輪出場可否問題は、日本の国会答弁でも取り上げられました。しかし彼は、ローマ五輪のレスリングに出場しようとした際にプロと断じられ出場できなかった以外は、遂に生涯何のお咎めもありませんでした。後年のルスカも健康器具ブルワーカー(懐かしい!)の広告やプロレスのショー・イベントに出た後にミュンヘン五輪に出場しており、似たようなものではありますが……。

ルスカは67年に世界チャンピオンになりましたが、その時点ではヘーシンクは引退していました。しかし、当時のルスカは「まだ、さほど強くはなかった」と言われています。それを物語るのが前出の平野師範の証言です。平野は1922年生まれ。拓殖大学出身で、あの鬼の木村政彦の5歳年下の後輩にあたり、木村より小柄な166センチ、75キロながら、立って良し、寝て良し、凄まじい技の切れ味を誇った柔道史上に残る強豪です。
木村同様に戦争に全盛期を奪われた不運もありましたが、戦後、昭和27年にヨーロッパに雄飛し、超人的なエピソードを多数残しています。
特に「抜き勝負」、「掛け勝負」を得意とし、弱冠20歳の時に講道館秋季紅白試合で4段15人を抜いて16人目に引き分けて5段に即日昇段、渡欧後、ドイツ・マンハイムでは「54人掛け」(50人掛けを予定していたが4人多く相手が出てきてしまった)をわずか35分で完勝したという伝説の持ち主です。平野はこう書き記しています。
「彼(ルスカ)の立ち技は日本人の二流級、寝技は五流級と思っていた。世界選手権のちょうど10日前オランダへ行った私は、彼を相手に寝技をやり子供を扱うように抑え、そして絞めてやった」とあります。ルスカは26歳。この時、平野師範は一体何歳だったと思いますか?ナント!45歳だったのです。

蛇足ながら、平野は49歳の時にヘーシンク、ルスカに続く「オランダ第3の男」と言われた、「2メートル10センチ、150キロ」の大巨人、当時23歳のペーター・アドラー(78年欧州選手権重量級覇者)と乱取り稽古をした際の話をこう記しています。
「私が子供のようにポンポン投げるので、みんな目をみはった」。
若き日のヘーシンクも「私は簡単に投げられるだろうと思って、その先生(平野)に練習を申し込んだが一方的に投げつけられてしまった」と証言しています。
ヘーシンクが56年第1回世界柔道で3位となった時(22歳)に、「私は初めての世界選手権で3位になりましたが、日本人柔道家が50人出れば私は51番目になっていたはずだ」と語っており、この頃はおそらく平野(当時34歳)にはまだ勝てなかったはずです。

ルスカは71年重量級世界王者を経て、72年ミュンヘン五輪重量級&無差別級の二冠王となった時には、さすがに日本でも非常に高い評価を受けていました。

正気塾の岡野功塾長は、ルスカが五輪前に半年間ほとんど正気塾に泊り込んで武者修行した際に直接稽古をしています。岡野は25歳で引退し、この時はまだ28歳。第一線で指導していた35歳頃までは現役並みの心技体だったそうです。岡野は3歳年上のルスカとそれは激しい稽古をしたといいます。ルスカは「私の柔道生活の中でもっとも苦しく厳しいものだった」と後に語っています。その岡野は当時の新聞紙上でルスカを評し、「技術、スピード、闘志ともにすばらしい。ただ力が強いというのではなく、日本の柔道というものがわかってきている」と最大級の賛辞を贈っています。

歯に衣着せぬストレートな発言で知られた天理大学の初代監督松本安市は、ヘーシンクの61年パリ世界柔道優勝を予言して当時の全柔連強化委員長を激怒させたことがあるのですが、ミュンヘン五輪直前、ルスカ本人に「五輪は君が勝つ」と話し、またも予言を的中させたそうです。日本人、外国人の分け隔てなく、優秀な選手には親身になって指導した熱血漢の松本は、「ヘーシンクもルスカもポカリと殴って指導した」と語るだけに、両者の柔道を知り尽くしています。おそらく、ヘーシンクVSルスカの実力を分析するのに最適な人物が、この松本氏なのですが、残念ながら故人となられています。

ライバルだった篠巻政利もルスカとの直接対決は2戦2勝だったものの、ルスカの強さは素直に認めており、後に「彼は左右が利く。体落としや大内刈りは強烈ですよ。あんな選手、今の重量級にはいませんね」と語っていました。また高校時代にベンチプレス180キロを挙げた程の怪力・西村昌樹も親友でもあるルスカのパワーにはすっかり脱帽していました。後に世界を制した遠藤純男も頭角を現した大学2年の時、ルスカの支え釣り込み足に木の葉のように投げられたそうで、ルスカが引退4年後の76年、アントニオ猪木と戦う前に警視庁で手合わせした時も激しい稽古となって関係者がストップするほどで、まだまだ強かったと語っています。

このようにルスカの柔道選手としてのピークはヘーシンクと完全にずれています。こうなると、ヘーシンクとルスカの優劣は、もはや「机上の空論」になってしまいます。

ところが、日本においては意外と、「ルスカのほうが強い」派が圧倒的に多いことに驚かされることがあります。その理由は簡単です。プロレス転向後の両者の「プロ格闘家としての評価」を「柔道家としての評価」と混同している「プロレス・格闘技寄りの論評」があまりにも多いからです。

以下は、格闘技専門誌の記事で、「昭和の外国人格闘家ベスト10」という企画で柔道部門を担当した格闘技ライターの記事です。「1位ルスカ、2位ヘーシンク、3位チョチョシビリ、4位ベリチェフ、5位ウィルヘルム、6位アレン…」(何故かプロレスに転向した選手ばかり!)とあり、ルスカ1位の理由は、「ヘーシンクは柔道をスポーツと語り、ルスカは武道と断言している。ヘーシンクは柔道ジャケットマッチ等を行なったが、浄化不良の如く燃えぬ試合に終始。一方のルスカは闘志ムキ出し、柔道の奥深さを伝えた」とあります。柔道のランキングなのにプロレスのリング上で行われたことを基準にして優劣を判断しています。「プロレスおたく」上がりが多かった格闘技ライターの柔道観というのは、まあ、この程度のものなんですね。

プロレスでのヘーシンクの評価は確かに散々でした。例えば、この記事が全てを表わしています。「ヘーシンクは全くひどかった。とってつけたようなプロレス技を少しみせるだけで裸で柔道をやっていたようなものである。輪島以下であったといえるだろう」。
さらにジャイアント馬場は辛らつなことを言っています。
「柔道衣を着て押さえ込まれたら、あんなに強い男はいないが、裸になったらあんなに弱い男はいない」。馬場のプロレス哲学から推測すると、「ヘーシンクは弱い」と言いたかったのではなく、「ヘーシンクはプロレスができない」ということを比喩的に表現したのでしょうが。

それに比べて、プロレスラーとしてのルスカの評価はさほど高くはないものの、格闘家ルスカに対しては「絶賛の嵐」です。プロレス関係者に限っても、御大のアントニオ猪木や坂口征二、後年人気を博した前田日明や佐山サトルもルスカの実力には敬意を表しています。

他の関係者の主な声を拾うと、猪木戦の試合監視委員長で柔道新聞主幹でもあった工藤雷介(修猷館高→拓殖大柔道部)「モントリオールのオリンピックに出場すれば、また金メダル2つは確実だろう」。
山本小鉄「ルスカは間違いなく世界最強の格闘家の一人だ」。
長州力「凄い、強いと思ったのは外人ならルスカ」。
藤原喜明「ルスカは強えな。本当にあいつは強えぞ。腕の力や背筋力がスゲぇな。柔道も強えけど、あいつならどんな格闘技やっても、いいところに行くだろうな」。
谷津嘉章「ルスカは力が強いですね。グイと手元に引き込まれる感じで腕がしびれた」。
新倉史祐「ルスカ選手はハイレベルな強さを持った恐ろしい男でした」。
ミスター高橋(新日本レフェリー)「私がリング上で見た男の中で、こんなに強いやつはほかにいない」。
富家孝(リングドクター)「彼(ルスカ)の眼光をまっすぐ押し返せる人はいないだろう。ケンカで張り合えるのはタイソンぐらい」。
大塚直樹(新日本フロント)「ルスカの実力は間違いなく外国人世界チャンピオン」。
栗山満男(TVプロデューサー)「世界の柔道界はルスカはヘーシンクより上だと、ルスカの方を評価していた」。
門馬忠雄(ベテラン記者)「あいつ(ルスカ)は、出てくるウ○○まで強そうだ」。

「モントリオールで金メダル2つ確実」はモントリオール五輪時に「36歳」であることを思えば、ちょっと言い過ぎだとは思います。ミュンヘン五輪後に引退した時に、「力の限界に達したこともあり、引退のしおどきと思う」と語ったルスカが36歳まで精神的なピークを持続することは難しかったと思います。しかし、ルスカに「36歳でも強い」と思わせる実力があったのは事実だと思いますし、筋肉隆々で「ひょっとしたら」と思わせるだけの肉体的コンディションを4年後まで保っていたのは間違いありません。

ルスカには後年、次のようなエピソードがあります。ルスカが53歳の時、オランダ在住の格闘技ライターがルスカを取材した際に、ルスカが現役のオランダ重量級のチャンピオンとたまたま乱取りをしており、オランダ王者はルスカに歯が立たなかったというのです。

一方のヘーシンクは後年肥満と不摂生が目立ち、「40代、50代でも柔道が強い」というオーラは全く感じませんでした。私見ですが、仮に「40歳同士、50歳同士」のヘーシンクとルスカが柔道で戦ったら、やはり「ルスカ有利」だったのではないかと思います。
しかし、お互いの「全盛期同士」が対戦したら、勝負は微妙なものとなるはずです。最後に専門家の意見をご紹介してコラムを締めくくります。

2004年4月にくも膜下出血で65歳で亡くなられた全柔連広報委員長、新聞記者OBの横尾一彦さんは生前に下記のような記事を残されています。横尾さんは早稲田大柔道部、学連委員長出身で柔道の記録、歴史の大家で、私が手本とする方なのですが、「ヘーシンクとルスカとどちらが強かったと比べられるが、ルスカは日本選手に何度か敗れているし、総合力、特に支え釣り込み足から崩して寝技に持ち込むヘーシンクの迫力は間違いなく一枚上だったと思う」と書かれています。

25年前に大澤慶己十段(当時八段)は、山下、ヘーシンク、ルスカの三者を比較して、「全盛期のヘーシンクに対してはたとえ山下でも容易に一本は取れまい。ただ、山下は受けも強いし、攻撃のチャンスをつかむのが上手だ。お互いに攻め合う目の離せない好勝負になるでしょうね。この2人に肉迫するのがルスカでしょう」と微妙な差ながらヘーシンクに軍配をあげています。

以上のように、全盛期同士なら「僅かの差でヘーシンクが上」という意見が柔道識者の間では多いように思います。

後年IOC委員にまで上り詰め、99年にソルトレーク冬季五輪開催地決定を巡る収賄疑惑という金銭スキャンダルこそあったものの、常に日の当る「表街道」で順風満帆の人生を歩んだヘーシンク。

世界初優勝時の新聞記事で「職業バーテンダー」と紹介されたものの、実態は酒場の用心棒(バウンサー)であったといわれ、「裏稼業」との付き合いも噂されるなど波乱万丈の人生を歩んだルスカ。

その後の2人の人生は大きく明暗を分けた感があります。

ともあれ、近年ではダビド・ドゥイエ(フランス)という強豪も出ましたが、ヘーシンクとルスカの最強論争は今後も永遠に繰り返されるものと思います。

バックナンバーはこちら
はじめに 〜筆者より〜
第1回 巨人ヘーシンクは古賀、吉田より小さかった!?
第2回 ウィリエム・ルスカの「釣り込み腰」と幻の名技「山嵐」
第3回 史上最大の偉業を達成した無名柔道家クラウス・ワラス
第4回 3分間だけ強いウルトラマンの「裏投げ」ハビーリ・ビクタシェフ
第5回 在日韓国籍柔道家の活躍と反骨の柔道王秋山成勲
第6回 「日本で最も愛された」ラシュワンと「日本を最も愛した」コバセビッチ
第7回 −番外編−格闘技王国「旧ソ連」のもう一枚の格闘技勢力地図
第8回 「モンゴル相撲史上最大の英雄」はアジアの柔道メダルコレクター
第9回 ベルグマンス、高鳳連から谷亮子の時代まで〜女子柔道「私的」25年史
第10回 “この技に命を賭ける”頑固な男たちのこだわりの職人芸
第11回 プーチン大統領の「柔道観」とそれにまつわる話
第12回 北朝鮮リ・チャンスの「炭鉱送り」を柔道的視点で考察する
第13回 絞め技で「落ちる」とどうなるかというコワ〜イお話
第14回 柔道衣の歴史と「長袖」、「たるみ」が持つ秘密
第15回 柔道史上に異彩を放つ「怪物」ビタリー・クズネツォフ
第16回 柔道界の内外から見たヘーシンクVSルスカ最強論争
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