KIKCHY FACTORY

一関第一高等学校PTA会報「温故知新」寄稿
「1978/79/80/81 ぼくたちの青春」
[No.107 2001/07/01]


 若輩者がどうかとも思いますが、高校時代のことを書いてみます。ともだちにめぐまれた、仲間に教えられた、ぎりぎりにピュアだった部活と部外活動だらけの3年間のことです。

 1978年、サザンオールスターズが衝撃のデビューを果たした年。それがわたしの一高生活がはじまった年でした。もともといわゆる「勉強」は大嫌いで、しかもぎりぎりの直前まで追い込まれないと気合いが入らないという困ったタイプ。中学まではそれでやって来れたのですが、高校での現実、とりわけ「物理」だ「化学」だのある部分と「数学II」の序盤以降、自分が概念として理解できる範疇を超えた「勉強」には全くノリ気がしませんでした。大学生にもなるとこれがちょっと小狡くもなって、社会に出たあとでおよそ現実的ではない「学問」でも、社会に出るためにとりあえずこなしたりもできる。それがなにしろ中途半端に智恵もついて、そのうえ自我に対して頑なにピュアだったあのころは、困ったことに、自分が認めないものを認める自分を認めない、わけです。そんな気持ちを整理整頓できなくてもがいていたその夏「勝手にシンドバッド」が街に流れていました。

 入学してすぐに羽球部に入部しました。バドミントン。中学のころ部活だらけになっていたスポーツで、高校で最初のともだちもやっぱりそういうコだったので、毎日走っていました。6キロ程度のランニング。走るほどに一歩一歩に流す汗の一粒一粒にピュアになれるように思えました。なぜやめてしまったんだろう。ほんとうに憶えてないのですが、秋の気配を感じるころ、いつものように練習に参加したその次の日、たぶんともだちを頼って弓道部の練習に参加していました。未知のスポーツ。ある種の古武道。撰んだ理由は単純でした。けれどそれ以上に大切なもの全てを、古びた市営弓道場がわたしに与えてくれました。それは変わらずの部活漬けの毎日。調子が出なければ自主的に走る走る毎日。変わったのは先輩も同輩も、思春期を迎えてからはじめて仲間ができたという実感。ともだちじゃなくて「仲間」。なぜかそのころの自分のピュアリティに、弓道のストイックなかんじがはまっていました。ちょうど長渕剛さんの「祈り」がラジオのスポットで流れてたころ。わたしにとって深夜放送がメディアのすべてだったころ。

 部活に熱中すればするほどに、成績はみるみる下がり、試験の度に担任に呼び出されてはお説教。ワカンナイことはワカンナイ。教室ではなんか自信がなくって、たぶんとびっきり地味だったんだと思います。ちょっとしたコンプレックスがもやもやしていて、16歳のわたしはさりげなく悩んでいました。わたしたちの世代でははじめてやってきた空前のディスコブーム「ステイン・アライブ」そして「ライディーン」元気な女のコたちがたぶん踊りに出かけてるころ、おんなじその曲をわたしはラジオで聴いていました。音楽として。そんなふうに教室と弓道場との2重生活を暮らしながら、あっというまに一高でのはじめての冬。アディダスのスポーツバッグを抱えた指に突き刺さる寒さを精一杯に受けとめて、道場から走り出した吐く息の白さをたのしんでいるうちに、1979年がやってきました。そして。

 「残心」という言葉があります。矢を放ったあと、的に向かって弓を引ききったいっぱいいっぱいに充ちた気持ちを保つ。「残身」とも書くこの言葉、しばらくわたしの指標になりました。一高のころはまちがいなく、わたしの人生の中で矢をつがって弓を引いてきた3年間だったと今も思います。もちろん的に向かったのが矢を放ったのが、それがいつなのか未だなのか、今でも引き続けているその途中なのかはわたしにもわからないことですが。

 1980年、シャネルズがデビュー「ランナウエイ」が流れる夕暮れ、弓道場からの最後の帰り道。3年の最後の大会が終わって、「大学受験」というゲームに興味を持てる様にもなって。あいかわらず「勉強」は大嫌いだったけれどそれなりに成績も上げてきて、根拠の無い自信もすこしずつとりもどして。弓道部の仲間のかわりに今度は教室のともだちと、教室の外で過ごす部外活動の毎日。自分の理解を理解してほしくて夜な夜な語りあかしていた。そんな毎日。

 ジョン・レノンの、悪夢の年末が明けた1981年。変わらないわたしたちの生活はすこしずつ変わりはじめました。それぞれの未来へそれぞれが踏み出して。わたしはと言えば、郷土の鬼才;大瀧詠一師匠の名盤『A LONG VACATION』を抱いて、わたしの次の筑波へと発ちました。

 それからはもう弓道部の仲間とも教室のともだちとも、もう逢うこともありません。一高の前や堤防でひたったりもしながら、それでも誰とも出逢うこともありませんでした。けれあのころからずっと、わたしは弓を引きっぱなし、的に向かいっぱなし、の気持ちでいます。きっとみんながみんなそれぞれの人生の中でそうやって生きているんだ、そう思います。あのころのピュアリティを精一杯にひきずって。

 「逢いたい」

 いつか。そのときに胸を張れるように今日もぎりぎりのところで、わたしは生きています。

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