【取材ノートvol.11】NJ調査報道班:岩澤倫彦 2010年11月10日
続・肝炎クロニクル
〜誤解という名の罠〜
「B型肝炎訴訟の和解には3兆円から最大8兆円かかる」、 「解決のためには増税しなければならない。国民の理解が必要だ」
こうした野田財務大臣の発言を聞いて、すぐに僕は「官僚たちが巧妙に仕組んだ罠ではないか」、と疑った。
“B型肝炎訴訟の和解は、増税による国民負担は避けられない”という意図的な誤解。それを民主党政権が、国民に与えるように仕向ける。そして冷淡な対応ぶりから“政権の支持率下落へ世論誘導”、というシナリオである。B型肝炎訴訟の原告を“被害者ではなく、無理難題な要求をする団体”という、もう一つの誤解を生む相乗効果も想定しているかもしれない。。
疑り深くなるのは、過去に同じ例があるからだ。
三年前の秋、薬害C型肝炎訴訟も和解協議が難航していた。厚労省の官僚は“和解に応じると3兆円が必要”という試算をはじいて、自公政権幹部に信じ込ませた。そして「原告の女性たちは左翼の活動家」というデマを吹き込んだ。もちろん、事実無根の中傷である。政府は“和解金の総額を設定した案”に固執、原告団との和解協議は事実上の決裂になった。
しかし、政府の対応に世論は一斉に反発、支持率は低迷した。政権がもたないと判断した与謝野馨氏(元官房長官/当時は自民)は、極秘で福田康夫首相(当時)に議員立法による解決案を提案。福田首相(当時)は日曜日に異例の緊急記者会見を開いて「全員一律救済する」と発表した。直前まで官僚には一切関与させなかった。
今から振り返ると、これこそが政治主導の決断だった。ちなみに、現時点の薬害C型肝炎訴訟に関する国の負担金は、約340億円。3年前に、厚労省の官僚が試算した約1/100である。(※10月11日現在)
B型肝炎訴訟は1989年、札幌市で肝炎治療に従事する美馬聰昭医師のグループが中心となって提訴した。当時、B型肝炎やC型肝炎には有効な治療法がなく、肝硬変、肝がんになった肝炎患者が次々と亡くなっていくのを医師たちは見守るしかなかった。
肝炎患者の多くは輸血の経験もなく、母子感染でもない。疫学を専門とする医師の中には、「ヒロポン(覚せい剤の一種)の回し打ちが有力な感染ルート」と主張、患者たちは汚名を着せられて、この世を去っていった。
この状況に怒りを覚えた美馬医師のグループは独自調査を行い、集団予防接種の感染ルートを割り出した。そして、国の法的責任を裁判で明らかにして、“B型肝炎とC型肝炎の患者の治療費を無料化させる(=医療費助成)”、という目標を掲げて提訴した。
これが、B型肝炎訴訟の原点である。
2006年、最高裁は5人の原告について『集団予防接種の連続注射でB型肝炎ウィルスに感染した』、と認定、原告一人につき550万円の損害賠償の支払いを国に命じる判決を出した。
集団予防接種の連続注射は全国各地で行われていたから、多くのB型肝炎患者が同様の感染ルートであったことは疑いようもない。原告の木村伸一さんや弁護団は、肝炎患者全体を対象にした治療費の助成制度を厚労省に粘り強く求めた。
しかし、当時の川崎厚生労働大臣は「判決の対象は5人の原告のみ」として面会すら拒否、政策対応もしなかった。その後、薬害C型肝炎訴訟は和解成立、救済法が制定された。最高裁で勝訴しながらB型肝炎は、置き去りにされた。
2008年、第二陣となるB型肝炎訴訟が全国10カ所で提訴された。原告弁護団は、薬害C型肝炎の救済法を基準に損害賠償額を設定した。※注)そのため、裁判の原点から離れて、“個人賠償に方針転換”したのか、という印象は否めなかった。
血液製剤が感染原因として明確な点、製薬企業が感染リスクを把握していた悪質性の点で、薬害C型肝炎は極めて責任が重い。これに対してB型肝炎の感染ルートは、最高裁が「高度の蓋然性」と表現したように、様々な感染ルートを消去法的に検証したものであり、他原因の可能性も否定できない。
前述の美馬医師は最近の調査で、個人病院の感染ルートを報告している。注射器の消毒が不適切だったり、一つの注射器を複数の患者に連続使用して、感染拡大を引き起こした可能性が強いという。
野党は、このB型肝炎訴訟について集中審議を申し入れたが、尖閣諸島問題などでうやむやになったままだ。責任ある対応をせず、お得意の解決先送りをするならば、与党は二時被害を原告に与えることになる。
B型肝炎訴訟の原告は、既に10人が亡くなった。肝がん、肝硬変が進行して、厳しい状況にある原告も多い。裁判を早期に解決して、患者は適切な治療をすぐに受けなければ、本当に取り返しのつかないことになる。
それでも原告が実名を公表して行動を続けているのは、“自分たちだけが救済されるような解決にしたくない”という強い想いがあるからだ。一部に自分の賠償のことだけで精一杯という原告もいるけれど、それは当然のことだろう。
原告弁護団は10月26日の和解協議で、『国が患者全体を対象にした治療費助成を行うならば、賠償額の交渉に応じる余地がある』と札幌地裁に示した。
原告にとって賠償額の引き下げにつながる可能性もあるが、より多くの肝炎患者の命が救われることを優先した決断は、深い葛藤の末に生み出された勇気ある行為だ。
原告は裁判の原点を取り戻した。次は、命を救うのか、見捨てるのか、国が試される番である。
現在、肝炎治療は大きく進化している。B型肝炎は『核酸アナログ製剤』によって、ウィルスを抑制、肝硬変や肝がんへの進行を防ぐことも可能になってきたし、肝硬変の状態から慢性肝炎に改善されるケースも報告されている。
国は今年4月から、『核酸アナログ製剤』の助成制度をスタートさせたが、薬の種類によっては月1万円を下回るケースもあり、実はあまり負担軽減になっていない。
ここで思い切った負担軽減策を講じることで、多くのB型肝炎患者の命を救うことができるはずなのだ。
「B型肝炎とC型肝炎は医療行為による感染なのだから、国が責任をもって治療体制をつくるべきである」
ノンフィクション作家の伊藤精介はC型肝炎で亡くなるまで、こう主張していた。
果たして、年内にB型肝炎訴訟は解決できるのか?
多くの肝炎患者が、菅政権の対応を厳しく見守っている。
【取材ノートvol.10】NJ調査報道班:岩澤倫彦 2008年12月24日
肝炎クロニクル
〜終わりなき闘い〜
薬害の罪は決して消えることなく、熾きのように被害者の中で静かに燃え続け、苦しみを与えている。 鎮めることができるのは、加害者側の罪を認めた上での真摯な対応でしかないはずだが、いまだに果たされていない。
「私は2年前に肝臓ガンが見つかりました。しかし私には妻も子もいます。 家族のために死ぬわけにはいきません。 長年苦しめられている人間が大勢いるのだということを真剣に受け止めて、謝罪してもらいたい」
2008年12月14日、薬害C型肝炎訴訟の原告である、細見悟司さん(41)は、被告の日本製薬・三浦勉社長に対して積年の思いを述べた。 細見さんは10歳の時に受けた心臓手術の際に、同社の血液製剤・PPSBニチヤクを投与されてC型肝炎ウィルスに感染、2年前の11月に4センチの肝臓ガンが発見された。 日本製薬と基本合意の締結となったこの日、実名を公表して社会に訴えることを決意したという。
去年12月、福田前首相が「全員一律救済」を宣言、原告たちに謝罪して薬害C型肝炎訴訟は一気に解決するはずだった。 しかし、原告団と日本製薬が基本合意に至るまで、約1年間もかかっているし、多くの課題は残されたままになっている。 被害が認定された原告に給付金を支給する法律成立したが、現時点でも国と製薬会社の分担割合は決まっていない。 総額は数十億円規模になる見込みだ。
薬害C型肝炎訴訟の原告数は、現段階で約1200人。血液製剤を投与されたと推定される患者数約27万人のうち、一握りでしかない。
フィブリノゲン製剤を製造販売した旧ミドリ十字(現・田辺三菱製薬)が、「少なくても1万人が感染している」とする主張よりはるかに少ない数字だ。 大半の患者は、血液製剤を投与されたのは20年以上まえのこと。 カルテの保存義務は、法的に5年間しかないから、残っているほうが“奇跡的”なのだ。 このまま、国や製薬会社が、カルテのない患者を見て見ないふりを続けるとしたら、再び大きな社会問題化する可能性もでてきた。 すでに動き出している患者団体もある。
フィブリノゲン製剤やクリスマシンを製造販売した旧ミドリ十字(現・田辺三菱製薬)が 原告団との基本合意に至ったのは、9月28日。この日、原告代表の山口美智子さんが、福岡から新幹線で大阪に移動する際に僕は同行取材した。 その車中で山口さんは、こんな言葉を吐露している。
「もし田辺三菱の社長が握手を求めてきたら、どうすべきか迷ってるんです」
その心境は痛いほど理解できた。 命の危機に陥り、天職だった教師を辞めざるを得なくなった原因を作った製薬企業である。 何よりも、二人の息子の心に大きな傷を残した罪は、そう簡単に赦すことなどできないはずだった。 まして裁判では容赦ない言葉を製薬企業の弁護士が投げかけてきたし、 国が謝罪しても半年以上も田辺三菱は何も対応しなかった。
それでも、山口さんは全国の原告代表という立場にある。 田辺三菱の社長が握手の手を差し伸べてきた場合に断わると、大きな影響がでると予測される。 苦渋の決断を前に、山口さんは葛藤していた。 それから数時間後、大阪市内のホテルで田辺三菱の葉山社長は、集まった原告たちを前に深々と頭を下げて謝罪した。
結局、葉山社長が手を差し伸べることはしなかった。
薬害C型肝炎の原告は、『肝炎患者全体の救済』という目標を掲げて、今も粘り強く活動を続けている。 被害を受けた当事者だからこそ伝えることが可能なメッセージがあると知っているからだ。
東京原告の代表世話人となった浅倉美津子さんは、今年春からインターフェロン治療を行い、 C型肝炎ウィルスは検出されない状態になった。 だからといって、以前のような健康を取り戻したわけではない。 現在も厚労省との交渉などで先頭に立つ浅倉さんだが、すっかり痩せた横顔は別人のようになった。 インターフェロン治療の強い副作用による影響である。著しい体力の低下で仕事も辞めざるをなかった。
厚労省は舛添大臣の強い意向のもとに『肝炎総合対策7カ年計画』として、 インターフェロン治療の助成制度を今年度から始めた。 だが、自己負担額が多くて利用する患者の数はそれほど伸びていない。 さらに単年ごとの予算措置であるため、政権が交代するなどした場合、打ち切りも予想されている。 そこで原告団は治療体制を法的に確立するためにの制定を求めている。
2008年12月14日、日本製薬との基本合意の席上で、原告代表・山口さんは三浦社長に1枚の紙を渡した。 国会に提出する『肝炎対策基本法案』の請願書だった。 予測していなかったせいか、三浦社長はその請願書を受け取らなかった。
その様子を見守っていた原告の一人、小林邦丘さん(36)は、叫ぶように言った。
「九州の小林と言います、これで終わりじゃないんです。 僕らは一生被害を背負って生きていかなければいけません。 できれば、署名の一番最初に社長の名前を書いてほしいと思っています。よろしくお願いします」
日本製薬の三浦社長は困ったような表情で小林さんを見つめたが、請願書を手に取ろうとはしない。 基本合意式の進行役である日本製薬の弁護士は、小林さんを制するように、閉会を告げる。
そこで僕は三浦社長に質問した。
「三浦社長、原告の要請にはどう対応しますか?」
こちらを向こうともしない。
「もう一度、お聞きします。その請願書に署名はしますか?」
「検討いたします」
一言だけ、三浦社長は答えた。 そこへ代理人の弁護士と思われる人物が「マスコミが言うことじゃないだろうが」と言い放ち、取材を遮った。
薬害C型肝炎という甚大な被害をもたらした企業には、説明責任があると僕は思う。 謝罪は幕引きではなく、償いの始まりでしかない。 この基本合意式の前に、日本製薬から原告弁護団に対して、予定以外の行動をとらないように要請があったという。 それでも、叫ばずにはいられないほど、小林さんは切実な思いに駆られていた。 彼がそこまで思いつめるのは、多くの肝炎患者の無念を背負っているからだ。
今年、肝炎の患者団体で中心的な存在だった2人がこの世を去った。 高畠譲二さん、享年73歳。薬害C型肝炎訴訟の立案者だった人である。 自身もC型肝炎を抱えながら、日本肝臓病患者団体協議会(通称:日肝協)の事務局長として、全国の患者会のまとめ役だった。 肝炎対策に消極的な厚生労働省に業を煮やし、裁判を突破口とする計画を立て、現在の流れを支えてきた。 ようやく道筋が見えてきた時に、くも膜下出血で倒れて帰らぬ人となってしまった。
天野秀雄さん、享年59歳。同じく日肝協の常任理事として、 患者の電話相談からマスコミの取材対応など、肝炎患者の状況を改善しようと努力されてきた。 穏やかな人柄で、多忙な時でも親切に資料の提供などに応じてくれた方である。
そんな天野さんが、「患者会の活動が成果に結びつかない」と悩んでいる時があった。 僕は「これまでの“国にお願いする”というスタンスではなく、強気の交渉をされるほうがいいのではないでしょうか」と勝手な感想を伝えた。 その後、天野さんは『肝炎対策基本法案』の実現に向けて、ご尽力されていたが、今年1月、C型肝炎によるガンで亡くなった。
薬害C型肝炎は政治決断によって大きく動いたが、混乱する政局と経済情勢のまえに再び立ち止まっている。 だからこそ、いま報道する者が何をすべきか、問われているのだと思う。
【取材ノートvol.9】NJ調査報道班:岩澤倫彦 2008年7月2日
原告たちの憂鬱
〜傷だらけの闘いが続く、薬害C型肝炎〜
「世の中は肝炎問題が終わったと思っています。  でも何も終わっていません!これからが勝負なんです!
凛として呼びかけたのは、薬害C型肝炎訴訟・原告代表の山口美智子さん。
6月24日、午後2時。灰色の空が広がる大阪の街に、全国から原告たちが集結した。 実名公表している人、匿名の人。中には重い副作用のインターフェロン治療中の人もいる。 決して体調が良くないことは傍目からも分かる。それでも、いま行動しなければいけない、 という危機感が原告たちを駆り立てた。“薬害C型肝炎”は、まだ解決していないからだ。
命を助けるはずの薬によって、命を脅かすC型肝炎ウィルスに感染した、“薬害C型肝炎”。 原因となった血液製剤を製造した旧ミドリ十字(現・田辺三菱製薬)と旧厚生省の官僚は、 この“事件”を隠蔽した。その結果、多くの人が命を失い、生き残った人は肝硬変やガンに 今も脅えている。
被害者たちは原告となって裁判を起こし、心と体を 傷だらけにしながら、粘り強く訴え続けた。その結果、 福田首相が責任を認めて原告に謝罪、5年越しの裁判は 和解成立した。そして『薬害肝炎救済法』により、原告が 給付金を受ける制度も確立した。
しかし、最も責任が重いはずの田辺三菱製薬は、まだ一度も原告に謝罪していない。 さらに和解交渉は難航している。原告が提示した和解案に対し、田辺三菱製薬が受け入れを 拒否してきているからだ。
原告サイドには、田辺三菱製薬の製品に不買運動を起こす計画も出ていたが、和解交渉に 入ったことを尊重して運動を控えてきた。その我慢にも限界があった。このままでは、 薬害の本質的な責任が曖昧になってしまう。原告たちは再び、満身創痍の体に鞭を打って 動きだした。
小雨が降り始めるなか、原告と支援者の一団はデモ行進 を始めた。目指す先は田辺三菱製薬の本社ビル。そこに、 参議院議員・川田龍平さんの姿もあった。彼は血友病の 治療で旧ミドリ十字の血液製剤を使い、HCV(C型肝炎ウィルス)とHIVの両方に感染した。
去年12月、原告たちが銀座を歩いて訴えた時も、 川田さんは激痛の走る足を引きずりながら、共に行動していた。
実は『被害者救済法』の対象に、血友病などの先天性患者は含まれていない。同じ 血液製剤で被害に遭いながら、先天性患者は原告に加わることを弁護団に拒否されたからだ。 早期解決を優先した苦汁の決断だと、弁護団の一人は語った。
この判断については、疑問や矛盾を指摘する声も多い。 それでも川田龍平さんは、代わらず原告と行動を共にする。 この闘いが、医療行為によって感染した肝炎患者の全てを 救済する第一歩になると信じているからだ。
午後3時過ぎ、原告と支援者の一団は、大阪・平野町の田辺三菱製薬を取り囲んだ。 そして、山口代表ら原告7人と弁護団が、交渉のために中へ入っていく。今回、初めて 原告が田辺三菱製薬の担当社員と直接交渉することになっていた。
交渉で原告は最終の和解案を提示した。そのなかで田辺三菱が抵抗している、 『1987年に青森の集団感染が表面化した当時の責任』『2002年に“418人リスト” を放置した責任』の二つを盛り込んだ。
1987年当時に適切な対応をしていれば、多くの命が救われたし、被害を未然に 防ぐこともできた。418人リストの放置は、被害者の命を軽視した行為である。 だからこそ、原告の信念は揺るがず、最後通牒を突きつけた。
この最終和解案に対して、田辺三菱製薬は翌週に回答すると応えたという。
初の直接交渉を終えて出てきた原告たちは、厳しい表情をしていた。その一人、 浅倉美津子さんは「田辺三菱製薬の姿勢に誠実さを感じることができなかった」と話す。 交渉が長期化していることに謝罪もなく、悪びれている様子はなかったという。彼女の 大きな瞳から悔し涙がこぼれた。
これだけの被害を出した場合、まずは被害者や遺族に対して謝罪するのが、企業モラル ではないだろうか。一国の首相が謝罪しても、第一義的な責任が問われている企業が何も 態度を表明しないのは、まったく理解できない。法的責任の議論は、その後にくるのが 筋である。
『被害者救済法』は、“血液製剤の投与を証明できる 被害者=原告”を対象に、病状に応じて三段階の給付を 行う。各地で続々と被害者たちが名乗りを上げているが、 製剤を投与された約28万人(メーカー発表)のうち、 原告数は現時点で901人。今後、原告数がどれだけ 増加するのか、未知数である。
田辺三菱製薬は給付金の支払いに備えて、112億円を準備しているが、これから国と 話し合って負担の割合を決める。同社が原告の和解案に慎重なのは、負担割合の増大を 懸念しているからだ、とある関係者が指摘していた。
原告たちが、これほどまでに過去を真摯に反省することを求めている理由、それは再び 同様の薬害を引き起こすことへの危機感である。最近になってもタミフルや、イレッサなど の重大な副作用被害が続いている。つまり、誰でも薬害の被害者になる可能性があるのだ。 だからこそ、製薬企業が社会的な責務を果たすのか、僕たちは自分たちの問題として 注視していかなければならないと思う。
【取材ノートvol.8】NJ調査報道班:岩澤倫彦 2007年9月19日
肝炎問題のゆくえ
9月19日、民主党は肝炎のインターフェロン治療などに費用を助成する法案を“次の内閣”で了承 した。空転している臨時国会が動き出せば、いつでも提出できるという。
この『肝炎対策緊急措置法案』を実現させたのは、厚生労働省まえで風雨の中、座り込みを続けた 薬害肝炎の原告たちと、その姿に心を打たれた民主党の議員たちだった。
C型肝炎はインターフェロン治療で約6割の患者が完治する。ただし、総額で80万円前後の費用が かかるために、躊躇する人が多い。もし治療費助成が実現すると、確実に多くの命が救われるだろう。
与党の肝炎プロジェクトチームは、来年度予算に治療費の助成を盛り込むことを示唆しているが、 まだ具体案を示していない。
4年前の同じ日、ノンフィクション作家の伊藤精介が都内の病院で 息を引き取った。C型肝炎による肝硬変が悪化、壮絶な最期だった。 闘いを終えた彼の目から、血の混じった一筋の涙が流れ落ちた。 あの場面を僕は一生忘れない。
輸血歴もないのに、なぜC型肝炎ウィルスに感染したのか? そんな疑問を抱いた伊藤精介は一冊の本を書き上げた。 『沈黙の殺人者・C型肝炎』(小学館)である。原因不明とされてきたB型、 C型肝炎患者の多くが集団予防接種での連続注射によって感染したと 指摘した。この本がきっかけで、僕たちは『シリーズ・検証C型肝炎』 企画をスタートさせた。
企画の相談役になった伊藤精介と僕らは、報道の目標到達地点を 定めた。
「肝炎の感染拡大は国の医療行政が誤りで起きた、と立証すること」、
「責任を償う意味で、国が肝炎の検査や治療費助成を行うこと」。
去年6月、最高裁は「集団予防接種の連続注射でB型肝炎ウィルスが 感染した」と認定、国に賠償を命令した。さらに、「血液製剤による 薬害C型肝炎は国の責任」とする判決が、大阪、福岡、東京、名古屋の 4地裁で下された。
こうした状況を受けて、安倍総理は「これまでの延長線上ではない肝炎 対策」を与党と厚労省に指示。この発言は6月25日と7月31日の二回繰り返されて、肝炎患者の救済 に乗り出す方針を明確に示した。
しかし、その後も厚労省と与党の肝炎プロジェクトチームは、具体案を示さなかった。そして9月7日、 仙台地裁は唯一、薬害C型肝炎に国の責任を認めない判決を出した。他の4地裁の判決は国の 責任時期などについてズレはあるが、国の責任を認定して被害者を救済する考え方は一致している。 なぜ、仙台地裁の裁判官たちだけが全く異なる結論を見出したのか。原告だけではなく、法曹関係者 ですら首をかしげた。
仙台地裁判決の夜、ニュースジャパンに出演した舛添厚労相は、「薬害C型肝炎訴訟は5つの 地裁で全て判決内容が違う。裁判と、肝炎患者全体の対策は分けて考える」とコメントした。また、 「ただ、原告と会うだけでは失望させてしまう、ちゃんとした対応ができる時まで会わない」との 考え方を示した。
これを聞いて原告たちは、舛添厚労相との面会を求めて、座り込みを始めた。その大半が女性。 厚労省まえの日比谷公園に、容赦ない豪雨と風が吹き荒れた。レインコートや仮設テントも役に立たず、 全身が雨に濡れた。C型肝炎を抱えた原告にとっては、まさに命がけの座り込みだった。彼女たちは 互いに励ましあいながら、抗議の意思を示し続けた。
なぜ、原告たちは大臣との面会にこだわるのか?
ある与党議員は、厚生労働省の官僚から「彼女たちは左翼的思想」と聞かされたという。 全く根も葉もない言いがかりである。家に帰れば普通の母親であり、妻であり、娘である。ぜひ、 原告の女性たちのブログを見てほしい。そこには、思想的、政治的な匂いなど微塵も無い。ただ、 C型肝炎に対する不安と恐れ、そして向き合おうとしない厚労省と製薬企業に対する怒りだけがある。 原告たちには根強い厚生官僚に対する不信感がある。僕の取材でも、上記のエピソードは複数の 与党議員から確認している。厚生官僚というフィルターを通して、舛添厚労相に正しく情報が伝わると 思う国民は、どれほどいるのだろうか?
原告の女性たちの中には、すでにインターフェロン治療で完治した人、 裁判の途上で亡くなった原告の家族がいる。そのような人々が、雨に 濡れてまで座り込みをする理由を聞くと、「治療費の助成が必要であると 訴えができるのは、自分たちだけだから」。
原告の行動は、他の肝炎患者 に対する使命感によるものだった。C型肝炎による家族の“死”を体験した 人が、悲劇を繰り返さないために行動している。本来、人の命を守る のは厚生労働省の仕事なのに…。
9月12日、予想もしなかった安倍首相の辞任表明で、原告の女性たちは座り込みを三日目で 解除した。問題解決を約束した安倍首相が去れば、再び振り出しに戻るのか?政治に翻弄され、 原告たちは不安に包まれた。
9月14日、全国5箇所の薬害C型肝炎訴訟のうち、最も早く進行している大阪高裁は、「和解による 早期解決が望ましい」という方針を示した。そして、原告と被告の双方に対して、和解のテーブルに つくかどうか、10月15日までに回答を求めた。 裁判が早期に解決するか、それとも長期化するか、国・厚生労働省の対応にかかってくることになる。
被害者である肝炎患者たちと対峙する、巨大組織の厚労省と製薬企業。そして未だに対策を示して いない、与党の肝炎プロジェクトチーム。そのメンバーである方々に、どうか想像してほしいと思う。
肝炎患者の最期がいかに壮絶であるか、遺された者にどれだけ深い哀しみを残すか。 そして、ご自分や家族が被害者の立場になっていたかもしれない、ということを。
現在、毎日100人以上の肝炎患者が亡くなっているという。問題を放置する『不作為』を続けることは、 もう許されない。
【取材ノートvol.7】NJ調査報道班:岩澤倫彦 2007年6月20日
約 束
6月25日午後2時、薬害肝炎訴訟の原告たちが安倍首相と会うために官邸を目指すという。 約束は取り付けていない。だから門前払いの可能性が強い。厳重な警備に阻まれるだろう。 それでも官邸を目指す意思は変わらない。提訴から6年目、原告たちは最後の望みをかけて、 この日を迎える。
原告の多くは女性だ。我が子を命がけで産んだ母親だ。血液製剤・フィブリノゲンを投与されて C型肝炎になったが、運命だと諦めて昨日まで静かに耐え忍んできた。そのなかで力尽きて、 この世を去った人もいる。血液製剤には大量のC型肝炎ウィルスが混入していた。そのため、 薬害肝炎の原告は、これまでの定説を覆す早いペースで肝硬変や肝ガンに進行している。
原告には若者たちもいる。誕生直後に投与された、 クリスマシン(第9因子製剤)で感染してから、すでに20年以上がたつ。肝硬変に進行してしまうと完治 させるのは難しい。だから早く治療したい。いまは 約5割の確率で完治可能なインターフェロン治療がある。 ただし、その費用は一年間で約80万円。多額の費用を 用意できる人は限られている。副作用も極めて強い。
友人が青春を謳歌している時に、原告の若者たちは死を意識して毎日を生きている。
薬害肝炎訴訟は、すでに大阪、福岡、東京の各地裁が、国と製薬会社(三菱ウェルファーマ)の 責任を認める判決を出した。投与時期などで請求が棄却された原告もいるが、根本的な薬害の 構図は共通している。
東京地裁の判決後、政治解決を求めて原告たちは日比谷公園 で座り込みに踏み切った。
三日後、官邸で下村副官房長官が原告代表の山口美智子さん と面会。「政府と与党が一緒になって肝炎問題の解決にあたる」 との言葉を受けて、座り込みは解除された。原告たちからは、 涙がこぼれた。それは喜びと希望の涙だった。C型肝炎を抱え ながら続けてきた活動がやっと報われたのだ。
その夜、安倍首相は原告たちの心情に配慮するコメントを出した。
あれから3ヶ月。実は、原告たちに具体的な解決策は何も示されていない。 この間に公明党の肝炎プロジェクトチームは原告たちと2回にわたって面談したが、自民党は原告と 会おうとすらしなかった。一部関係者からは「肝炎対策と薬害肝炎訴訟は分けて対応する」との 声もでている。
また、控訴審が始まっている大阪高裁は、国に和解を非公式に打診した。これを国は拒否、徹底して 争う姿勢を変えていない。
官邸の約束は、いったい何だったのだろうか?
待ち続けてきた原告たちの心に湧きあがっていた疑問。それは、怒りへと変わりつつある。だけど 彼らは希望を捨てていない。まさか安倍首相が裏切るはずがない、と心の片隅で信じたいから。
薬害肝炎訴訟の先頭に立ってきた、原告代表の山口美智子さん。 彼女を初めて取材したのは5年前。九州大学・内田博文教授の授業で、ご自分の体験談を話した 時だった。先週、同じ九州大学で僕は非常勤講師として、『感染症最前線』という授業を受け持ち、 薬害肝炎のことを話した。参加した約300名の学生たちの大半は90分間、集中力を切らさずに 耳を傾けてくれた。(もちろん数名の熟睡組もいたけれど)
学生たちは、薬害肝炎の被害が続出した1980年代に生まれた世代だ。もしかすると彼らの 母親が、そして本人が被害者となっていたかもしれなかった。だから、原告たちの抱えるC型肝炎と 心の痛みに対して、思いを寄せてくれたのではないだろうか。
先月、厚生労働省をのぞむ日比谷公園で、C型肝炎や B型肝炎の患者たちが地面に身を横たえた。『ダイ・イン』と 呼ばれる、“死”をイメージした抗議行動だった。
いま、一日あたり約120人の肝炎患者が亡くなっている。 それでも厚生労働省は根本的な対策を取ろうとしない。 このままでは、いずれ自分たちも同じ運命を辿ることになる。 全国から集まった肝炎患者は、静かな怒りと抗議を示すため、 そびえ立つ厚生労働省のビルの下で目を閉じたのだ。
6月25日、アポなしで安部首相との面会を求めるという、 薬害肝炎の原告たち。そんな無謀とも思える行動に駆り立てて いるのは、背後に迫っている肝硬変や肝がん、そして“死”だ。 すでに4人の原告がこの世を去っている。今すぐに裁判を 解決させて、本格的な治療に入らないと命を落とす人が続出 するのは必至である。
多くの問題を抱える安倍政権が、原告との約束を果たすのか、 この国は誠実であるのか。
その対応を多くの人々が注視している。
【取材ノートvol.6】NJ調査報道班:岩澤倫彦 2007年5月28日
ある勇者の帰還
4月最後の土曜日、心が明るくなるような青い空が広がっていた。
だからインタビュー取材を井の頭公園でやることにした。公園に着いてみると人々は散歩をしたり、 お弁当を広げたり、楽器を奏でていた。穏やかな休日の風景だった。
しばらくすると急に強い風が木々を揺らしはじめた。
ひんやりと湿った風。そして天空に黒い幕を引いたみたいに、あたりが一気に暗くなった。
やがて痛いくらい大粒の雨が降り始め、雷が地面を震わせた。
スタッフ全員で逃げるように取材車両まで戻り、携帯電話を 見ると着信表示が出ていた。留守電に短いメッセージが 残されていた。
「あの、田代くんが亡くなったから…、とにかく一報だけと思って。」
それだけ言うと、沈んだ声は唐突に切れた。
体中から力が抜けていった。
2年前の春、ある法律をめぐって国会審議が紛糾していた。
障害者の福祉サービスの利用に原則一割負担を課すという、『障害者自立支援法案(当時)』である。 福祉のあり方を根本から変える法律に障害者たちは強く反発。所管の厚生労働省まえで徹夜の 座り込みを何日も続けた。氷点下近くまで冷え込んだ夜もあった。重い障害を抱える彼らにとって 命懸けの抗議だった。
そこまでするには、理由があった。障害者の就労機会は限られているし、賃金も健常者と 比較して低い。大半の障害者は収入を障害者年金に頼っている。この現実を改善しないままに 原則一割負担を求めると、負担に耐えられない人は生活ができなくなる。
つまり、「死」に直面する事態が起きる可能性があった。
強い危機感を抱いた障害者たちだけが、身体を張って法律を阻止しようとした
こんな時期に、22歳の田代伸之くんと僕らは出逢った。 彼は脊髄性筋萎縮症のために、自力で立つことや 歩くことができない。上半身の筋力も極端に弱く、何とか箸を持つことができる程度。
離島の対馬(長崎県)で 生まれ育ち、幼い頃から車イス生活だった。高校進学を きっかけに、親元を離れて長崎の国立病院(当時)に 入院した。共働きの両親に負担をかけないためだった。 その後、通信制の大学でコンピューターを学び、 合計7年間の入院生活を送った。
そして、2005年の春に、彼は就職を目指して福岡に単身出てきた。同時に一人暮らし=自立生活 をスタートさせた。障害者団体のサポートによって、24時間の介護体制も得ることができた。 採用してくれる企業はなかなか見つからなかったけれど、彼はまぶしいくらいの希望を持っていた。
「この先自分がどうなるか分からないから、怖いな、不安だなという気持ちが大きいけれど、 自立生活を続けたいという気持ちは変わらないです。病院での規則に縛られた我慢の生活よりも、 自分の夢に向かって動くほうが頑張れる。今は生きた時間が流れているし、充実している。 夢ですか?それは普通のサラリーマンになって、その給料で自立生活をすることです。」
2005年当時のインタビューで、田代くんはこう語っていた。 結局、彼の自立生活をサポートした障害者団体で仕事を見つけ、今度は自分が相談を受ける側になった。 そんな姿を『時代のカルテ〜障害者の自立〜』、第4回と第10回でOAした。
障害者自立支援法は反対運動を押し切る形で成立。 2006年4月から段階的に施行された。自治体によっては 自己負担の軽減を行うところもあるが、あくまで経過措置。 この先、障害者の生活は厳しくなることは確実だった。 自立支援法による自己負担が始まり、田代くんは外出を 控えて食費を削り始めた。生活費の中で切り詰めることが可能なのは、この二つしかない。
「一日の食費を500円に設定したんすよ」。
毎日、カップラーメンにしたり、安いお弁当を二回に分けて食べる。こんな努力をしなければ、一日の 食費は500円を超えてしまう。しっかりとした栄養が取れるはずがなかった。だけど、経済的に将来への 不安が募っても、田代くんはいつも人懐っこい微笑みを浮かべていた。彼の笑顔を見るとほっとした。
今年2月、薬害肝炎訴訟の取材で福岡に行ったときに 田代くんと会った。彼は痛々しいほど痩せていた。 アフリカ難民の子供と大して変わらないほど、げっそり していた。表情から笑みが消えて、余裕がないのが 気になった。
聞くと、去年の暮れにノロウィルスに感染して体調を崩し、 食事がほとんど出来なくなったという。切り詰めた生活が 田代くんから抵抗力を奪ってしまったのだろうか。
その後もなかなか体力が回復しなかった。勤め先の 同僚が病院に行くように勧めたけれど、返ってくる言葉は いつも同じだった。
「かったるいんだよね」
ようやく3月になって病院に行き、検査を受けたら結核だった。即、入院したが、治療薬の副作用に 苦しんでいたらしい。そろそろ退院のめどがついたかな、と思って彼の勤務先に電話すると、 「どうも入院が長引きそうだ」という返事だった。その夜遅くに容態が急変した。
4月28日の午前11時15分、田代伸之くんは入院先の病院で息をひきとった。 まだ、24歳の若さだった。
その夜、迎えに来た父親とともに彼は博多港から定期船で海を渡った。藍色の海のなかにある故郷の島に、 勇者は静かに帰還した。代くんが病院に行こうとしなかったのは、治療費を 節約するためだったのか。今となっては彼に確かめることはできない。少なくても経済的な圧迫感は、心と身体 にも影響していただろうと思う。それでも彼は弱音を吐かずに最期まで自立した生き方を通した。
僕たちに残された時間はどれだけあるのか、誰にも 分からない。
死は予告なしで突然やってくる。だからこそ今の瞬間を 精一杯生きるしかないのだろう。残された僕たちにできる のは、勇気ある生きざまと静かな笑顔を胸に刻むこと、 障害を越えて自立生活をすることの大切さを問い 続けること。
だけど、田代くん、きみと二度と会えないことは、たまらなくさみしい。
【取材ノートvol.5】NJ調査報道班:岩澤倫彦 2006年12月8日
脳死移植はどこへ行くのか
その無邪気な笑顔はあまりに儚く
かけがえのない命
どんなことをしても生き続けてほしい
そう願う親の気持にわが身を重ねて
僕たちは募金箱に思い託した
だけど、この時、考えもしなかった
自分の子供が脳死となって
臓器を提供するドナーになる
そんな日がくるかもしれないということを
(ナレーション・浅野忠信)
これは10月16日から始まった、脳死移植シリーズのオープニングです。
様々な意見がある脳死・臓器移植の問題について、僕たち取材スタッフが感じた戸惑いと覚悟を、 ありのままに伝えようと考えたナレーションでした。この語りを担当したのは、俳優の浅野忠信さん。
その名前が候補として挙がった時、彼は海外で映画の撮影中でしたが、企画に賛同していただいた 所属事務所のご理解によって、忙しいスケジュールを縫って収録が実現しました。
ニュース企画のナレーションは今回が初めてという 浅野忠信さん。番組の意図を説明すると、 熱心に耳を傾けて聞き入り、収録に臨んでくれました。
彼の語りによって、映像は魂を込められたように思います。
臓器移植は、死の瀬戸際にある患者を救うことが可能な医療です。 手術が成功すれば、患者はドラマチックな回復を果たしますが、必ずしも願うような結果は 保証されていません。「決してばら色の医療ではない」と移植の専門医も語っています。
そして何よりも鍵を握るのがドナーの存在です。ここ数年、日本国内で臓器移植が 受けられないために、難病の幼い子供や心臓病の患者が、一億円前後の募金を集めて海外に 渡るケースが相次いでいます。
1997年に施行にされた臓器移植法では、子供(15歳未満)の脳死ドナーを 認めていないこと、(※注1)脳死ドナーが年間10人前後のために順番が回ってくる機会は 極めて少ないことが原因です。
当初、僕自身は、迫り来る死と闘う幼い子供や親、医師たちの思いを伝えることが 報道の責任であり、臓器移植法の早期改正を提言していくべきであると考えていました。
2004年の暮れにフロリダで多臓器移植を受けた、彩花ちゃんという赤ちゃんがいました。 あの子が渡米直前にタラップで見せた眼差しによって、僕は突き動かされていったように思います。
しかし、取材を進めていくにつれて、臓器移植のパラドックスが行く手に立ち塞がり、 自分自身の報道を見つめ直すようになりました。
脳死移植に慎重であるべき、とする意見は、臓器移植法の施行後も少なからず存在しています。 脳死は人の死とすることに疑問を呈する医学研究や、『ラザロ徴候』と呼ばれる、脳死患者に 起こる上半身の動き。また、脳死判定の重要な項目である、脳波測定は脳内部の状態を確実に 把握できるものではない、と脳神経外科の医師が語っていることは、脳死の概念を根本から 揺さぶるものでした。
そして意外だったのは、取材したドナー家族の多くが、死後十年近くたっても臓器提供に後悔や疑問の念を 持ち続けていること。欧米の「臓器提供によって癒された」とする体験談とは対照的な現実です。 こうした事実を把握していくにつれて、脳死移植報道に対する自分の方向性は揺れ動き続けました。
「今秋の臨時国会で、いよいよ臓器移植法の改正が審議入りする。」 永田町からの情報を受けて『時代のカルテ』では、脳死移植シリーズをスタートさせることに なりました。(※注2)
そこでぼくたち調査報道班は、次のようなことを話し合いました。
「レシピエントだけでなく、ドナー家族の視点にたった問題提起を行うこと、 ラザロ兆候など、タブーとされてきた事実を伝えること、そしてなによりも、 自身と家族の問題として臓器移植を捉えること。わが子が脳死となった時に、 温かい身体から臓器の摘出を同意できるのか、その苦しみを想像することから、臓器移植を語ること」
現在、大半のテレビや新聞の報道は、臓器移植法の早期改正を唱えているようです。 その中で僕たちのようなスタンスは法改正の論議に一石を投じるかもしれません。しかし、 移植を待ちわびている患者や家族の方々にとっては歓迎されないでしょう。それでも、 批判を恐れずに伝える意味があると、今は信じています。
『脳死移植』は、移植を必要とする当事者なのか否か、さらに人生観や死生観、信仰する宗教、 年齢、家族関係などによって、それぞれの答えがあるはずですから。
誰もが避けることができない“死”をどう迎えるのか、 死後の身体をどのように処するのか、 僕たちは覚悟を決めておくべき時が来ているようです。
注1)現行法で、15歳未満の脳死ドナーが認められていない理由は、 医学的に子供の脳死判定が困難であること、(特に6歳未満) 民法で遺言可能な年齢が15歳以上とされていることなどが挙げられる。
注2)臓器移植法の改正案は、2006年秋の臨時国会で審議入りせず、 来年4月以降に持ち越される見通しとなった。 12月13日、衆議院・厚生労働委員会では臓器移植に関係する参考人を 招致して、法改正に関する意見を聞いた。 日本小児科学会・別所文雄会長は「現在の日本の医療水準、および 社会的状況は、脳死の小児からの臓器移植には、不十分であるのではないか」 と懸念を表明している。
【取材ノートvol.4】NJ調査報道班:岩澤倫彦 2006年7月7日
裁かれた予防接種の大罪
あの日、僕たちは教室や体育館に集められて一列に並ばされた。それぞれの顔には、 隠しようもない恐怖が浮かんでいた。腕をまくると、アルコール綿で素早く消毒された。そして、 回ってくる自分の順番。目の前の医者が手にする注射器は、前の子に使っていたやつだ。 一瞬にして走る鋭い痛み。同時に冷たい薬液が体の内側に侵入してくる奇妙な感覚。 僕は思いっきり目を閉じて耐えた。当時を振り返って友達はこう言う。
「いつも新しい注射器に当たればいいなと思っていたよ。でも、たいていは3、4番目になって しまったんだ」
かつて日本では、こうした『集団予防接種の連続注射』が日常的に行われていた。 一本の注射器で数人をまとめて打つことから、『まわし打ち』とも呼ばれていた方法である。
注射針を体に刺すと、針先に血液が付着する。さらに針を抜く時にも、陰圧の関係から筒内に 体内の血液が吸い込まれるように逆流する。B型やC型肝炎ウィルスは血液によって感染する。 だからキャリアの人に使用した注射器を次の人に使用すれば、感染する可能性は当然強い。 特にB型肝炎ウィルスは、C型肝炎ウィルスに比較すると極めて感染力が強い。 目に見えないほどの僅かな血液でも感染が起きることは、科学的に立証されている。
地域によって、『まわし打ち』は、1980年代前半まで行われていた。いま20代以上の世代は、 等しくB型やC型肝炎ウィルスの感染リスクに晒されていた。感染しなかった人は、ただ運が 良かっただけだ。WHOは1953年に連続注射による肝炎の感染リスクを世界中に警告したが、 旧厚生省は予防接種の連続注射を放置した。
B型とC型の肝炎患者は、合わせて300万人以上存在するといわれている。 輸血や血液製剤を投与された患者が多数を占めるが、原因不明も多い。
でも、血液感染なのに、なぜ原因不明なのか?
身に覚えがない肝炎患者の誰もが疑問を抱いた。医師や旧厚生省の担当者たちは、 その原因が予防接種の連続注射であることは知っていた。しかし、誰も責任は取ろうとせず、 沈黙した。事実は隠されたまま歳月が過ぎた。そして、多くの肝炎患者が取り残された。
たいていの場合、肝炎は自覚症状がないままに進行する。感染に気づいた時は、すでに 肝硬変や肝ガンになっているケースもある。感染を知っても、金銭的な理由や仕事の都合で、 満足に治療を受けられない患者も多い。
肝炎が末期に進行していくと、様々な症状が表れる。目が黄色になる黄疸、どす黒く変色した肌、 水がたまって妊婦のように膨らむ腹。肝臓の機能が低下してアンモニアが頭に回り、混濁する意識。 医師や看護師には、患者の死期が分かる。それを察しても、笑顔で話しかけなければならない。 肝炎患者たちは苦しみながら次々と亡くなっていく。それを見届ける者の無念は計り知れない。
こうした状況に憤りを感じて、行動を起こした人々がいた。札幌の肝炎専門医・美馬聰昭氏たちの グループである。彼らは状況を変えるために、国を相手に裁判を起こす計画を立てた。司法が 予防接種の連続注射による肝炎の感染を認めれば、国は肝炎患者全体の救済を行わざるを 得なくなる、というシナリオだった。
まず、美馬医師たちはB型肝炎患者の中から原告となる患者を探した。感染の構図はC型肝炎も 同様だったが、裁判の戦略上、B型肝炎に絞ることにした。当時6歳だった亀田谷和徳くんの母親を 何度も説得した。B型肝炎を理由に幼い亀田谷くんは差別を経験していた。悩んだ末に母親は 裁判に参加することを決意した。その後、原告の中心的存在となる木村伸一さんも加わり、5人が 提訴することになった。
弁護団の結成も難航した。国を相手にする裁判は膨大な時間と労力が必要とされる。 それでいて、勝訴する可能性はあまり高くない。しかも必要経費すら持ち出しになる。 そんな厳しい裁判をやり遂げる力は、高い志だけだ。
やがて肝炎患者の実状を知り、見過ごせないと思った弁護士たちが集まった。
佐藤太勝さんを筆頭に、奥泉尚洋さん、佐藤哲之さん、尾崎英雄さんが国を相手に闘うことを 決意し、後に新人弁護士の竹之内洋人さんも加わった。そして、1989年6月、 札幌B型肝炎訴訟が提訴された。途中で原告の男性一人が亡くなり、家族が意思を継いだ。 一審は原告側の敗訴だったが、二審で逆転勝訴。国は上告して徹底的に争う姿勢を見せた。
提訴時に6歳だった亀田谷和徳くんは、二十歳になったのを機会に実名公表を決断した。 薬害エイズでの川田龍平さんがイメージにあった。10年以上も裁判を闘いながら、いまひとつ 世論が盛り上がらないことに苛立ち、若い自分が顔を出して語ることで流れを変えたかった。 この時、亀田谷くんは看護師の資格を取るため、専門学校に通っていた。いまだに医療現場 でもB型肝炎に対する差別が存在するという話を聞く。もしかすると就職できなくなるかもしれない。 でも、インタビュー中にそのことに触れると彼はこう言った。
「差別するなら差別してみやがれ!って思いますね」
翌日、学校の仲間が集まって海辺で キャンプをした。そこで彼は予防接種でB型肝炎に なったこと、裁判で国を相手に闘っていることを打ち明けた。仲間は自然に亀田谷くんの 言葉を受け入れた。二審判決で勝訴し、地元のマスコミを中心に大きく報道されたが、 国は上告した。何も変わらない現実に亀田谷くんは絶望した。
2006年6月16日、最高裁の判決を迎えた。 重厚な法廷に中川了滋裁判長の声が響く。傍聴席最前列に、原告の亀田谷和徳くんと 木村伸一さんの困惑した表情があった。判決の言い渡しがあまりに専門的で、勝ったのか、 負けたのか、判断できなかったのだ。正直言って、僕も完璧には理解できなかった。ただ、 中川裁判長は国側の請求をことごとく棄却していた。つまり原告側の全面勝訴だった。 「一人ごとの注射器や針の交換や消毒の励行を指導せず、連続使用の実態を放置していた」 (中川了滋裁判長)最高裁は、国の責任を明確に断罪し、原告5人全員に対して損害賠償を 支払うよう、国に命じた。
「国の賠償義務が認められたことについては、重く受け止めている。原告の方に対しては、誠に 申し訳ないという気持ちであり、判決に沿って迅速に対応したい」(厚生労働省・中島正治健康局長)
判決後、国は責任を認めて謝罪の談話を発表した。しかし、談話の文面から、国は原告5人に 限定して対応する、という意思表明にも受け取れる。これは猜疑心の強い僕の悪い癖だろうか? この裁判の目的である患者全体の救済を実現すると、膨大な予算が必要になる。小泉政権の 方針に沿って、厚生労働省は医療費や社会保障費の大幅な削減に着手している。肝炎患者全体の 救済は、全く念頭に置いていないのではないか。
僕アメリカの作家・ポール・オースターの言葉を思い出す。
「いやしくも正義というものがあるとするならば、それは万人のための正義でなくてはならない。 誰一人排除されてはならない。さもなくば正義というものもありえない」 (『孤独の発明』新潮社刊 Paul Auster 著、柴田元幸訳)
5人の原告は、あくまで300万人以上といわれる肝炎患者の象徴である。 だから、5人に対する判決は、患者全体に対する判決といえるはずだ。早く手を打たないと、次々と 命が失われていく。日本では約3万人が毎年肝ガンで亡くなっているが、その8割以上が肝炎だ。 僕たちが取材で関わった患者の方々の多くが、今はすでにいない。肝炎は長い時間をかけて 進行するが、病状が悪化する時は、一気に急坂を下る。元気そうにインタビューに応じてくれた 患者さんが、一ヵ月後に訪ねると亡くなっていた。そんなことが何度もあった。
ノンフィクション作家・伊藤精介も感染原因不明のC型肝炎だった。 彼は自身の疑問に答えを出すために、『沈黙の殺人者 C型肝炎』(小学館刊)を書き上げた。 丹念な取材を積み重ねて、集団予防接種の連続注射によって日本中に肝炎が蔓延した実態を 明らかにした。そして、肝炎は医療行為によって感染した『医原病』であり、国が責任を持って 救済するべきだと指摘した。伊藤精介は僕たちの相談相手となって、『検証C型肝炎シリーズ』の 方向性を示したり、励ましたり、時には議論を戦わせた。師匠であり、兄であり、同志のような 存在だった。
僕たちのチームは、旧厚生省と旧ミドリ十字が隠し続けてきた、血液製剤・フィブリノゲンを発見、 スクープ報道した。この血液製剤でC型肝炎になった被害者たちが結集して、薬害C型肝炎訴訟 へと展開していった。こうした状況のなかで、伊藤精介のC型肝炎は確実に進行していた。 病状は深刻で、彼は吐血して倒れ、緊急入院した。僕たちは寄り添うこと以外に何もできず、 無力だった。後に発見された彼の日記には、こんな言葉が記されていた。
「望みを持つこと
 夢を抱くこと
 これを失ってはならない
 もう一度、挑みはじめること」
できることなら、彼に最高裁の判決を聞いてほしかった。 そして、もうこれ以上、誰にも肝炎によって大切な存在を失ってほしくないと願う。これから国が どのような肝炎対策をとるのかによって、多くの患者の命が左右される。そのことを厚生労働省の 人だけでなく、政治家や国民の一人一人に知ってほしい。 僕はいつか、伊藤精介の墓前に、こう報告したいと思っている。 「あなたの遺志はしっかりと果たされました。だから安心して眠ってください。」 その日が来るまで、僕たちのチームは肝炎の問題を追及していくつもりだ。
【取材ノートvol.3】NJ調査報道班:岩澤倫彦 2006年6月8日
絶望に包まれた世界の片隅でおきたこと
突然、息が苦しくなって彼女は目覚めた。誰かに首を締められている…。 目の前にいたのは自分の母親だった。電気コードを首に巻きつけて締め上げていた。 彼女は自由の利く左手でほどこうとしたが、無駄だった。両手の力をいっそう強めて、 母親は言った。
「ごめんね、ごめんね、一緒に死のう。」
彼女の呻き声はやがて消えた。驚きと困惑と恐怖のなかで、27年間の人生が終わった。 息絶えた娘の傍らで母親は両手首を切り、刺身包丁を自分の腹部に突き刺した。 傷の深さは13センチに達していた。血を流しているところを家族に発見され、 母親だけがこの世界にとどまった。
障害者自立支援法が原因で、無理心中事件が起きている…。」 そんな噂が障害者団体のなかで広まっていた。やがて僕たち取材班のところに、ある文書が 回ってきた。母親の嘆願署名の呼びかけだった。それによると、被害者は脳に 重い障害を抱える27歳の女性。母親自身も足に問題を抱え、障害4級の認定を受けていた。 「障害者自立支援法で自己負担が始まると生活ができなくなる…」。思い悩んだ母親は無理心中を 図ったという。
彼女は海外旅行が大好きな、ごく普通の若者だった。異変が起きたのは20歳の時。 勤務先で突然倒れ、運ばれた病院で、『ウィリス動脈輪閉塞症(通称:モヤモヤ病)』と診断された。 脳内の血管が狭窄、または閉塞する原因不明の難病である。3年後、彼女は再び倒れた。 今度は脳内出血を起こし、植物状態に陥った。同じ頃、父親は肝臓がんで入院を繰り返していた。 そのため母親は二人の看病で孤軍奮闘した。状況は絶望的だったが、母親は諦めなかった。 彼女を病院に連れて行き、リハビリや、脳血管のバイパス手術を受けさせた。やがて、杖をついて 歩けるようになり、左手は軽いものを握れるようになった。簡単な会話を交わすことも可能になった。 彼女は、薄皮を一枚一枚剥がしていくように回復していった。根気のいる長い道のりを娘と母は、 二人でゆっくりと歩み続けた。
障害1級の彼女の日常生活には、どうしても介助が必要だった。入浴や外出などに、 4つの福祉サービスを利用していたが、収入が限られている一家に費用の負担はなかった。 しかし去年暮れ、『障害者自立支援法』によって制度が変わり、サービス利用に原則一割の 自己負担がかかることを母親は知った。いろいろな減免措置もあると説明されたが、複雑すぎて よく分からない。夫は2年前に亡くなり、住宅ローンを抱えている。買ったばかりの車も手放したが、 貯金は底をついた。次第に母親から笑顔が消えていった。疲れがひどくなり、体が思うように 動かなくなっていった。
今年2月、母親はサービスの利用を全部止めて、自分ひとりで娘を介護することを決めた。 それを聞いた福祉施設の関係者は「全部のサービスを合わせた自己負担は、7,500円程度の 負担の見込み」と説明し、思い直すように説得した。だが、「自己負担の正確な金額は、実際に サービスを利用してからではないと分からない」という。母親は、かえって不安を深めた。 自分だけで娘の介護を試みたが、とても続けるのは無理だと感じた。肉体的、経済的、 そして精神的に追い詰められ、残ったのは絶望だけだった。『障害者自立支援法』の施行が 目前に迫ってきた3月11日、悲劇が起きた。
この無理心中事件の初公判が、5月25日に福岡地方裁判所で開かれた。 法廷に姿を見せた母親は、頼りないほど痩せて小柄だった。背を曲げ、うつむき加減に足を 引きずるような歩みで被告席についた。魂をどこかに置き忘れたような表情をしていた。 母親を知る関係者から、いつも笑顔で元気にあふれている人だと聞いていたが、その面影は どこにも無かった。検察官は冒頭陳述で、制度を誤解したことが犯行の原因であると主張した。 『障害者自立支援法による自己負担は全部で7,500円程度の見込み、との説明を受けたのに 母親は耳を貸さなかった。さらに、福岡市では自己負担分の半額補助を決めていた。しかし、 母親は一律に負担増となると思い込み、犯行に及んだ』。(冒頭陳述より要約)翌日、各新聞には 『介護負担増と誤解』(西日本新聞)、『新法で負担増と誤解』(読売※福岡版)の見出しが並んだ。
だが、本当に「誤解が招いた事件」だったのだろうか?
まず、事件が起きた3月11日時点で、「障害者自立支援法による自己負担の金額は正確に 算出できる状況になかった」と福岡市の担当者は証言している。また、「自己負担は全体で 7500円程度の見込み」とされている点についても、この母娘を良く知る福祉関係者は 疑問を呈する。「7,500円の自己負担は、ひとつの施設利用分ではないか?4つ全部の サービス利用を合わせると20,000円近い負担の可能性もある」さらに、ある障害者は、 「福岡市の自己負担を半額補助する制度は、個別の障害者に周知徹底されていなかった」 と指摘する。母親を絶望させたのは、自己負担の金額ではなかったのかもしれない。 これまでは「ハンディを持った人は社会が支える」という日本の福祉政策に、母親は経済的、 精神的に安心感を持っていたと思われる。しかし、障害者自立支援法はその安心感を 喪失させた。その結果、孤立感を深めた母親は、我が子の命を絶つという行為に 走ってしまったのではないだろうか。
障害者自立支援法は去年11月、国会で可決された。今年4月の施行まで半年もなかった。 複雑な制度を理解するには短すぎる時間だし、各自治体にとっても十分な準備時間ではなかった。 僕たちの調査では、障害者自立支援法・施行直前の3月だけで、同様の無理心中事件が全国で 4件発生している。たとえ、わが子の行く末を案じたからと言って、命を絶つことは決して許されない。 ただし、そこまで彼らを追いつめた原因は何だったのか?
こうした悲劇を繰り返さないため、僕たちを含めた報道機関は検証する責任があると思う。 この事件の原因を単なる『思い込み』だけで片付けていけないはずだ。法廷での母親は、 この世に何の未練もない目をしていた。
そして僕は、自分たちの報道に意味はあったのか、と自問する。
こうした悲劇を予感していたからこそ、去年の5月から『時代のカルテ』でシリーズを組み、 滝川キャスターとともに障害者自立支援法(案)の見直しを含めた問題提起をしてきた。しかし、 結果として法律はほとんど修正されずに成立し、一番弱い人々に影響が出てきている。 だから審判を受けるべきは、自分ではないかとも思えてくる。『時代のカルテ』では、テレビ報道で あるがゆえに、映像的な分かりやすさに偏重してしまった。彼らの内面的な苦悩を伝え切れなかった ことが、社会の共感を呼び込むことができなかった原因かもしれない。その責任を今、 かみしめている。
僕の手元に、彼女が作ったビーズのアクセサリーがある。
自由に使える左手だけで、一個一個に糸を通して完成させたものだ。うまくいかない時には、 「ムカつく!」と叫び、周囲の人を笑わせた彼女。通っていた福祉作業所には、笑顔の遺影が 掲げられていた。彼女が亡くなって間もなく、自宅の裏山は満開の桜で埋め尽くされた。 薄紅色に染まった風景のなかに、悲しみの記憶が溶け込んでいく。最後まで生きることに 前向きだった命。いま、彼女に対してできることは、この世の現実をしっかり伝えることしかない。
心からご冥福を祈ります。
【取材ノートvol.2】NJ調査報道班:岩澤倫彦 2005年8月23日
伝えたい思いは届いたか
愛する人を失った悼みは、いつまでも心の中に深く刻まれる。
たとえ歳月を経ても、それは決して消えない。まして、その死の原因が国の認可を受けて 販売されていた“薬害”だとしたら、ご本人はもちろん、家族の無念さは計り知れない。
8月のある日、教会の礼拝所で二人の女性とお会いした。二年前にC型肝炎で他界された 女性の妹と長女である。その女性は、薬害C型肝炎・東京訴訟に匿名で参加、 原告番号13番と呼ばれていた。実は今回お会いして初めて、女性が亡くなる直前に 思いを語ったビデオ映像がある、と知らされた。
8月18日に放送した、『時代のカルテ・最期の伝言』は、その女性のビデオ映像を 中心に構成した。ビデオ映像の中で、女性はとても厳しい表情をしていた。 ガンの末期状態になって、「身体の中を針の束が転がっているような痛み」に耐えていたという。 そして、責任回避に終始する国や製薬会社の姿勢に、大きな憤りが表情に表れたのかもしれない。 でも、家族と一緒に映っている写真を拝見すると、とても穏やかで優しい表情をしていた。 それが本来の女性の姿なのだろう。
この番組では、血液製剤・フィブリノゲンによる薬害C型肝炎について、 4年越しの報道を続けている。厚生労働省は、去年暮れに製剤の納入先病院(約7千機関)を 公表、最近ではウィルスの無料検査を年齢制限なしにするなどの政策を打ち出している。 しかし、もっと早くに対応できた内容であることも事実。 また、ウィルス検査で感染が判明しても、治療については自己負担になっている。 自覚症状が乏しいC型肝炎の場合、どうしても治療を先延ばしにする傾向が強いため、 十分な情報提供が求められている。
1987年3月に青森の産婦人科医が、フィブリノゲン製剤による急性肝炎の連続発生について 厚生省(当時)に報告していた。しかし、国も製薬会社も被害の実態調査を行わずに、 放置してきた責任は重い。なぜ、当時、手をこまねいたのか?その時に、可能な限りの対策を とっていれば、13番原告のような悲しい結末にならなかったかもしれない。
国と製薬会社は、薬害C型肝炎訴訟で真っ向から争っている。 薬害によって失われた命の重さ、家族との別離する苦しみがどれだけ深いのか、 ぜひ女性の映像をみて感じてほしいと思う。 そして、裁判の判決が出るまで患者の救済は一切しないという方針だとしたら、 多くの患者が手遅れになることを知ってほしい。 無念の死を遂げた原告13番の女性は、「自分の体をC型肝炎の医療に役立てほしい」と 家族に告げた。そして、C型肝炎との闘いに傷ついた彼女の亡骸は献体された。
【取材ノートvol.1】NJ調査報道班:岩澤倫彦 2005年8月4日
ニュースの理由
選挙になれば政権交代の可能性もある。だから、テレビや新聞の報道は郵政民営化法案が 中心となっていくのは必然かもしれない。しかし世論の関心が低いとしても重要な問題がある。 郵政法案の陰で着々と政府与党が進めている 障害者自立支援法案がそれだ。 でも、なぜ重要なのかは、僕達スタッフも最初は理解していなかった。
2月15日、放送を終了してから、滝川キャスターと僕達取材班は厚生労働省まえに向かった。 障害者自立支援法案に徹夜で座り込みの抗議をしている障害者グループがいるという。 上半身の一部しか自由にならない身体のひとが、電動車椅子の上で寒さに耐えながら訴えていた。
「自分たちの存在を直視して法案を考え直してほしい。」
体温調節すらままならない重度の障害者にとって、風邪をひくだけで生命の危機に陥る。
そんなリスクを覚悟で彼らを駆り立てるものは一体何か?
厚生労働省のある官僚は「反対しているのは一部の人たちですから。ああやっているのは別に 珍しいことではありません」と、こともなげに言い放った。でも、冷たい雨に打たれている車椅子の 人たちは必死だった。あの夜の出会いが、僕たち取材班の原点だったと思う。
政府与党によると、障害者自立支援法案の特徴は次のようになる。
(1) これまで制度的にバラバラだった身体、知的、精神の三つの障害者政策を一元化
(2) 全国統一のサービス基準を導入して地域格差を解消
(3) 財政基盤を安定化するために国の支出を義務的経費化
ただし、『介助サービス利用料の原則一割負担』など、負担が増大する仕組みがセットで 付いてくる。まさにアメとムチ。また、『全国統一のサービス基準』の具体的な内容は、 示されないまま。法案が成立した後に決める方針だという。
こうした政府与党の姿勢に、多くの障害者たちは不安を抱き、訴える
「もっと障害者の声を聞いてほしい。」
「審議に時間をかけて説明してほしい。」
危機感を募らせる障害者たち。その結果、7月5日に全国各地から一万人を超す障害者が 東京日比谷に集結。慎重な審議を訴えて、国会周辺をデモ行進した。このような抗議行動は 初めてだという。
しかし、7月13日午後4時20分、衆議院・厚生労働委員会は 障害者自立支援法案を採決。自民、公明の賛成多数で可決された。 その直後に泣き出した女性がいた。車椅子から呆然と見つめるだけの若者。 なかには激しい言葉を議員に浴びせて、衛視に連れ出される者も。 障害者で埋め尽くされた傍聴席に、混乱と怒りと悲しみの風が一気に吹き荒れ、 やがて虚無感とともに消えた。
国民の20人に1人が何らかの障害を抱えている。
平成17年度の障害者白書はこんなリポートで始まる。これまで多くの障害者と 出会ってきたが、彼らの人生は想像以上に“普通”だった。生まれた時から筋肉が 萎縮していく難病を抱えていたひと。交通事故で脊髄を損傷して車椅子生活になったひと。 糖尿病で視力を失い、盲導犬と共に生きることを選んだひと。ストレスから精神を病んだひと。 自分が同じ立場になっていたとしても、なんの不思議もない。いつの間にか、 僕はその姿を自分と重ねていた。
「仮に一生を通じて身体に全くトラブルが無くても、誰も障害と無縁ではいられないんですよ」 進行性の筋ジストロフィーを抱えて生きる27歳の男性はこう言った。 「人は必ず老いるものだから。今は健康な体で生活していても、いつか不自由な身体の自分と 向き合う。いつかは障害者になります。」 彼は自力で歩けないので電動車椅子を使っている。上半身の筋力は携帯電話を持つのがやっと。 それでも、介助者を使いながら一人暮らしをしている。そして、全身の自由が利かない未来を 予感しながら、障害者の自立生活をサポートする仕事を続けている。 「この身体も個性だと思うんです。」彼が何気なく言った言葉が忘れられない
参議院の厚生労働委員会で、7月28日から障害者自立支援法案が審議入りした。 郵政法案の影響で、8月2日に予定されていた審議はキャンセルされた。それでも、 今国会の会期末は13日に迫っている。残された時間で十分な審議は行われるのか?
「予定の時間を消化しなくても採決は可能だ」と語る議員もいる。 翻弄される障害者自立支援法案。自分達の問題として考えてみてほしいと思いながら、 僕らは伝え続ける。