チャド共和国
 
現場で感じたこと

外務省のホームページで、駐日チャド大使館がどこにあるのか調べると、「兼轄 中国常駐」 とある。日本に大使館はなく、中国にある大使館が兼務しているのだ。
当然、チャドへのビザ申請は日本ではできない。中国まで行って申請することになる。
チャドは日本にとって外交も距離も遠い国なのだ。

 

この国で子どもがたくさん亡くなっている。
貧困に加え、栄養不足、不衛生、医療知識の欠如が原因だという。

 

FNSチャリティキャンペーンの今年の支援国、チャドの首都ンジャメナに到着したのは、6月14日夜、日本をたって28時間後だった。
まずユニセフ・チャド事務所から、市内撮影が禁止と聞かされた。危険なのか?
車で町を回った。長袖にターバンをまいた男、原色模様の布を巻きつけた女。道端に座ってお祈りをささげている人。見慣れぬ光景に、緊張とアフリカの熱暑が体をつつんだ。

 

ンジャメナの市場に取材に行った。大勢の人であふれかえっている。食べ物から中古品までいろいろある。物は豊富のように思える。人込みを歩くとすぐに汗が噴き出てくる。ハエが多いのには閉口した。道路にはバイクが走っているが、意外とトヨタ車が多く走っている。
これがチャドのほんの一面でしかないことが、やがて分かってくる。

 

町の中央部にあるスラムに行った。
枝木、藁、ブリキ、石、土、などを寄せ集めただけの粗末な家が集まっていた。
家といっても床はなく、中に入ると地面しかない。この上にゴザを敷いて寝る。
迷路のような路地を歩いていくと、どこからもなくたくさんの子どもが集まってきた。
外国人を見るのが初めで珍しいのだ。
手を振って挨拶をすると、ものすごく喜ぶ、握手を次々に求めてくる。
子どもたちの笑顔は可愛い。でも、多くの子どもが栄養不良なのだ。

 

街道沿いに、ゴツゴツした石をハンマーで砕いている女性と子どもたちが大勢いた。
着ているものは擦り切れ、石の粉が付着している。炎天下、石を砕いて袋にぎゅうぎゅうに詰め込む。一日中働いて100円ほどの稼ぎという。
私もハンマーで石を砕いてみた。思ったより固い。破片がとびちり、目に入るととても危険だ。子どもは全員女の子だった。
母親に子どもの年をたずねても答えられない。自分の年も分からない。出生届けをしておらず、学校にも行かせていない。「読み書き」はここでは必要とされていない。
この国に生まれた子供、特に女性には「権利がない」ことが後で分かってくる。

 

首都ンジャメナから車で8時間、モンゴに着いた。静かな田舎町といった印象だ。
舗装道路はない。信号なんかない。ロバが人や荷物を運んでいる。ラクダを使っている人もいるが、ここではちょっとした金持ちかもしれない。

 

ユニセフの協力を得て、いろいろな家族に会って話を聞いた。
静かな町に見えたのは表面にすぎなかった。
栄養不良の双子の乳幼児をかかえて、畑仕事をする母親にあった。第二夫人だという。子どもは7人。双子は母乳のでない乳首を一生懸命にくわえていた。
7.8歳くらいの娘が裸の弟をあやしていた。腰を横に出して弟を抱きつかせているのだが、こんな小さな娘がうまく抱きかかえるものだ、と妙に感心した。
女は家の外で食事を作る。枝を燃やして火をおこし、ナベをかける。ナベの中はミレットというチャドの穀物だ。コメもあるが高い。量が少なく十分な食事はとれない。
母親は母乳の代わりに子どもに水を与えるという。水は茶色。その子は栄養不良と感染を併発する。

 

女で小学校に行くのは半分以下。男より断然少ない。14歳で結婚して10人の子どもを産むことも珍しくない。早産が慣習になっている。
子育ての苦労に加えて、家事、畑仕事、重たい水汲みも女の仕事だ。
女は学校に行く必要はない、と考えられているのだ。

 

生まれてくる子どもにとってチャドは最悪の国の一つだ。
栄養不良、コレラ、髄膜炎などで5人に一人は死亡してしまう。せっかく生き延びても、生年月日は分からず、学校に行けない。

 

こんなにも貧しい国チャドだが、素晴らしいこともたくさんあった。
必ず、村単位、住居単位に人の良い世話人がいた。ここに住むすべての家族を把握しているのだろう。この世話人は落語にでてくるご隠居さんを連想させた。
みんなが挨拶をする。握手もよくする。優しく家族思いで親切な人ばかりだ。取材にも嫌な顔ひとつせず、丁寧に応じてくれた。
お菓子をあげても家族のために持ち帰る子ども。当たり前に仕事をする子ども。弟や妹の面倒を見る子ども。どこの家族も肩を寄せ合い生きていた。
「きっとかつての日本はこんなだったかも」と、皆で話した。

 

教育が行き届いたらきっといい国になるに違いない。

 

FNSチャリティキャンペーン事務局
加田 光弘