FNSチャリティキャンペーンメインテーマ
『世界の子どもたちの笑顔のために』

全国小・中学校作文コンクール文部科学大臣賞受賞作品全文掲載
「学ぶこと、そして伝えること」
表彰式で文部科学大臣賞を授与される関慶志君(写真提供:読売新聞社)
©写真提供:読売新聞社
表彰式で文部科学大臣賞を授与される関慶志君(写真提供:読売新聞社)

文部科学大臣賞

学ぶこと、そして伝えること
東京都・啓明学園初等学校 六年
関 慶志

 

 一学期の最終日のことだ。先生から通知表が配られて間もなく、それまでにぎやかだった教室が急に静まりかえり、クラスの友達の顔から表情が消えてしまった。みんな通知表をじっと見つめ、目をはなそうとしない。先生は少し困ったように僕たちを見つめている。
「何か大変なことが書いてあるにちがいない。」
皆のふん囲気からそう感じた僕は、自分の通知表を一生けん命読もうとした。しかし、僕には他の人のようにネパール語をすらすらと読むことができず、いらいらした。
 僕は父の仕事の都合でこの三月までネパールの小さな町に暮らし、地元の学校に通った。小さな町と言っても、ネパール人の感覚では首都カトマンズの次に栄えている大都市である。しかし日本人の方には、小さな町か村と言った方が分かりやすい。

 僕の通った学校は、家庭が貧しくて学校に行けない子供たちを救うために、外国の方が個人のお金で作った学校だ。全寮制で学費、生活費はすべて無料。アジアで最も貧しい国の一つと言われるネパールにはこのような学校が少なくない。この学校の生徒はネパール全国から集まって来ていて、そのほとんどはヒマラヤの奥深くの村から家族とはなれて一人で出てきた子供たちだ。
 僕はネパールに来てこの学校に通うことが決まった時、とても不安だった。言葉も生活の仕方も日本とあまりに異なり、トイレも汚く、停電もひどかった(一日十二時間も停電した)。父がこの学校の先生方をよく知っていて、外国人留学生として特別に受け入れてもらったのだそうだが、正直に言えば「こんな場所で生活するのは無理だ」と思った。
 しかし、朝起きてからねるまで皆と一緒の家族みたいな生活だったので、一カ月もすると慣れてしまった。そして、川で手洗いの洗濯、野良犬を連れての散歩、電気が無くロウソクだけで過ごす夜も、慣れてしまうととても楽しく感じるようになった。一学期が終わる頃には言葉の問題もほとんど無くなった。
 「来年度から学費、一カ月三千ルピー(約三千円)。支払えない生徒は退学とする。」
通知表にこう書かれていることを友達から知らされたのは、その日、学校が終わってしばらくしてからのことだった。僕はそれを聞いておどろき、皆と一緒に落ち込んだ。なぜならば、僕はネパールに生活してみて、貧しい人々が月三千ルピーも子どものために支払うことなど絶対にできないことがすぐに理解できたからだ。学校を作った外国人の方が準備できるお金が少なくなったことが理由だそうだが、こんなことを急に言われたら、「やめろ」と言われているのと同じようなものだ。
 この学校を続けられなかったらどうなるのか。僕がこの学校に来て二カ月後に親からはなれた生活がたえられず、自主退学して村に帰った同級生の例をあげる。その女の子は家族の元に戻ったが、家族は喜ばなかった。彼女を育てるお金が無いからだ。結局彼女は召使いとして他の村で働かされることになった。僕は、召使いなどという言葉は物語の中でしか見たことがない。しかし、この国では貧しい子どもが召使いになるのはめずらしくないのだそうだ。
 実は、この日生徒たちは朝からワクワクしていた。なぜならば、翌日からは一カ月の秋休み。皆半年ぶりに故郷の村に戻るのだ。僕も休みの期間、仲良しのアヌの実家の村にホームステイすることを前から楽しみにしていた。しかし、通知表に書かれたその一文で、故郷へ帰る楽しみが、台無しになってしまった。わざわざ迎えに来てくれたご家族の方々も、半年ぶりの再会なのに、一カ月三千ルピーと聞いたとたんに言葉が出なくなってしまった。僕はそれまでネパール人を見ていて、いつも笑顔で、悲しいことやつらいことがあってもあまり表情に出さないと思っていた。だから、友達やご家族の深刻な表情を見て、皆さんがとても大きなショックを受けていることが分かった。そして、皆さんがつらい思いをしているのに、僕ばかりが秋休みを楽しんでいいのかな、と申し訳ない気持ちになった。しかし、
「ケイシが来るのをみんなが楽しみにしているよ。」
というアヌのご家族のこの言葉に甘えて、予定通り遊びに行くことにした。
 アヌの村の標高は、三千五百メートル。富士山と同じくらいの高さのところにある。たどり着くだけで困難だと先生方から言われていたが、その大変さは僕の想像をはるかに超えていた。少さなトラックの荷台に六十人もの人々と一緒に詰め込まれて急な山道をジープで七時間。がけを登っているような感覚でガードレールもなく、いつ落ちてしまうか分からない。さらにゆれが激しく、ジープが動いた途たんに気持ちが悪くなってしまい、何度も吐いた。ジープから降りたら次は登山だ。景色も何もない、土だけの道をひたすら登り続ける。僕はその頃にはとても疲れていて、ほとんど何も考えられなくなっていたのだが、今あの時のことを振り返って考えると、「こんなところに住んでいる人間がいるのか」というおどろきと、「来るのをやめておけばよかった」という後悔の気持ちでいっぱいだった。
 村では、とてもたくさんの人々が僕たちのことを出迎えてくれた。外国人の子供が一人で遊びに来るのは初めてだとのことで、村中のうわさになっていたようだ。皆少しはなれたところでじーっと僕のことを見つめていた。これだけ長い間見つめられるのは初めてのことで、困ってしまった。また、皆さんの話す言葉の意味が全く理解できないことにも困り果てた。言葉が通じないのは、僕のネパール語が下手だからではなく、皆がこの村の民族語で話しているからだ。ネパールの田舎では、民族ごとに同じ地域にまとまって住んでいて、各民族が自分たちの言葉を持っている。他の民族と話す時にはネパール語を使うが、自分の村にいる時は民族語で話すのだ。このことは、ネパールの学校の授業で習って知っていたが、民族語が分からない僕にとっては最悪の事態だ。「ここにこれから二週間…。」たどり着くだけで精いっぱいだったこともあり、これから先のここでの生活を考えると、不安で胸がいっぱいになってしまった。
 しかし、僕の不安は翌日には吹っ飛んだ。村の皆さんは僕がいる時にはネパール語で話してくれたし、英語を話せる方も少しいた。すぐに友達もできて、毎日山の中で思いきり遊んだ。水汲(く)みや木の枝集めなどのお手伝いも、友達と一緒だと全くいやにはならなかった。僕はここに来る前、貧しい村の人々はかわいそうだと思っていたが、村の子どもたちと一緒に遊んでみると、僕の住む町の子どもよりも、ずっと元気でいつもうれしそうだった。僕もこんなに朝から晩まで遊び続けたのは、久しぶりのことだった。
 村での二週間、僕はアヌの家に泊めてもらった。彼の家を説明するのはとても難しいのだが、分かりやすく言うと、家の中は縄文時代の竪穴式住居に似ている。日本帰国後に学校の社会科見学で訪れた。東京都埋蔵文化財センターに展示されていた縄文時代の家の模型は、アヌの家にそっくりだった。電気もガスも無く、僕たちが運んできた木の枝に火をつけてお母さんが料理をする。その横で僕たちは遊んでいるのだが、火の煙で目が痛くなってしまう。夜はご飯を食べたのと同じ部屋で家族全員一緒にねる。お風呂やシャワーは無く、山の水が流れて来る水汲みの場所でときどき体を洗うだけだ。
 アヌの家族は毎日農作業をしている。しかし、それは仕事ではなく自分たちが食べるものを作っているだけだ。だからお金は無い。ネパールには、仕事が無い人がとても多いのだ。また、この国には家族を助けるために外国に出稼ぎに行く人も多いのだが、アヌの家族や親せきは誰も行っていないそうだ。家の中、食べ物、服そうなどからアヌの家族がひどく貧しいことは明らかだった。アヌは、
「家にはまったく金が無い」
と以前からよく言っていたが、彼の家に泊めさせてもらってその意味がよく分かった。しかし不思議なことに、これだけ貧しい生活をしているのに、アヌのご家族はなぜかいつも優しくて明るく元気だった。僕が村の生活を楽しんでいるかいつも気にかけてくれたし、家ちくの世話の仕方や火のおこし方など、僕が知らないことも教えてくれた。毎日が笑いの連続。僕なら、日本でこれだけ生活が苦しければ、毎日暗い顔で過ごしているに違いない。アヌのご家族の幸せそうな様子を見て、「ネパールでは貧しい人たちも楽しく生きているのだな」と思った。

 しかし数日後に起こった事件で、僕は大きなかん違いをしているのだということを思い知らされた。

 それは、僕が村をはなれる四日前、村の学校の先生が夕食を食べに来た時のことだ。この日先生は、アヌの学費のことを話し合うためにやってきた。その先生は英語を話せるので、僕が村に到着した時から村のことを親切に教えてくれるやさしい方だ。しかし、その夜はまるで別人のようだった。きびしい顔でアヌの両親や親せきの方と民族語で話している。アヌはそれをただ黙って聞いている。僕は言葉が何も分からないので、皆の表情をじっと見つめていた。話し合いが始まって二十分ほどたった時のことだ。アヌが突然下を向き、声を出して泣き出してしまった。僕はびっくりした。その内に、アヌのお父さんもお母さんも泣き始めた。三人が泣いている姿を先生や親せきの方々はただ、じっと見つめているだけ。そして、しばらくすると先生は黙って帰ってしまった。
 その日の夜遅く、アヌはその日の話し合いの内容をすべて僕に話してくれた。そして、今度は僕が泣いてしまった。アヌが聞かせてくれた話が、あまりに悲しいものだったからだ。
 二年前のこと。昨夜に夕食を食べに来た先生は、ネパール中の大きな町を回り、アヌのために全寮制の無料の学校を探したそうだ。アヌの家にはお金が無いからだ。そして見つけたのが僕の通う学校。その学校への進学が決まった時には、ご家族も村の人たちも大喜びだったそうだ。アヌは村で一番勉強ができる子ども。アヌが村をはなれる前日には、村人全員でお祝いのパーティーを開いたそうだ。それなのに、毎月学費三千ルピーという突然の知らせ。そんな大金を払えるはずがない。この夜の話し合いで、アヌはこのまま村に残り学校をやめることになってしまった。さらに、アヌの家族には彼を育てるお金も残っていないので、親せきの知り合いの家で働かされることになってしまった。つまり召使いになってしまうのだ。
 僕はそれまで、学校の友達が皆、貧しい家庭の子供だと知ってはいたが、それが一体どういうことなのかよく分かっていなかった。ストリートチルドレン、児童労働、児童売買など、貧しい国の子どもが犠牲になっていることを父からよく聞いていたが、現実のこととして考えることができていなかった。僕はあの夜、貧しさが人々を苦しめているということを初めて理解したのだと思う。だからと言って、泣いているアヌに何も言ってあげることができなかった。
 数カ月前に退学した同級生が召使いになったことを知らされた時もショックだったが、今度は自分の親友が召使いになってしまうという残こくな現実を目の前にして、もうどうしていいのか分からなくなった。僕は自分の親に、「お前を育てられない」などと言われたことがないので、アヌの気持ちを正しく理解することができないが、とても悲しいだろうということは想像できる。
 翌日から、アヌは元気が無くなってしまった。いつもと同じように遊んでいるが、ほとんど言葉を出さない。アヌの落ち込んだ姿を見るのがつらくて、僕も楽しい気持ちが無くなってしまった。そして、落ち込んでいるアヌを見ている内に、何とか助けてあげることができないか考えるようになった。しかし、いくら考えても何ができるのか思い浮かばない。そこで、村の方からけい帯電話を貸してもらい、父に電話をした。父は、
「何ができるか分からないけど、とりあえず、君をこっちに連れて帰る人がいないと困るから、僕が迎えに行くよ。」
と言い、その二日後に村に到着した。
 僕は父にある提案をした。この時、僕の日本の貯金口座にはお年玉などを貯めた約六万円の貯金があったが、そのお金をアヌの家に寄付しようと考えたのだ。そうすれば、アヌは学校に行けるからだ。しかし父は、
「その気持ちは分かるけど、今お金あげても、結局いつかまたお金が無くなって同じことになるのだよ。」
と説明してくれた。考えてみれば確かに父の言う通りだ。今六万円を寄付しても、毎月三千ルピー払えば、一年半以内にはそのお金が無くなり、学校を続けることができなくなってしまう。父は、こうも言った。
「君は、貧しい人の気持ちを理解することができた。それだけでもすごいよ。そして、助けたいという気持ちもえらい。でも、その気持ちを忘れずに、学校に行けない人たちの分も一生懸命勉強して、大人になって自分で稼いだお金で困っている人を助けるといい。今の君は人からお金をもらって生きているのだから、まだ他人に寄付する資格は無い。だから、貯金は自分のために使いなさい。」
それもその通りだ。家族のお金で生きている僕が、自分のためにくれたお金を他の人にあげる資格はない。結局、寄付をするのはやめることにした。
 父は到着してすぐに学校の先生の家に出かけてしまい、僕のところに戻ってきたのは夜遅くなってからだった。帰ってくるなり父は元気な声で言った。
「明日はみんなで山登りだ。」
ここから二時間くらい登ると、ヒマラヤ山脈が間近に見える絶景ポイントがあるそうなのだ。父によれば、村の子どもたちは日々の水汲みや家ちくの世話、農作業などで忙しく、美しい景色のことを考える余裕など無いそうだ。その結果、美しいヒマラヤの景色が近くにあるのに、それを見に行ったことのある子どもはほとんどいないとのこと。
「みんなできれいな山を見に行けば元気付く」
父はそう考えたのだそうだ。父の提案を聞いたアヌや友達は、
「登るのは疲れるからいやだ。」
と言ったが父は、
「僕が一人で行くと迷ってしまって危ないから、ついて来てくれない?」
と何度もお願いすると、「仕方がないか」という感じで、皆ついて来てくれることになった。
 翌朝、アヌと過ごす最後の日。明け方に山を登り始めた。登山開始から十分。僕は言葉を失っていた。想像していたよりもずっと急な坂道だったのだ。みんながいやがっていた訳がよく分かった。しばらくすると、
「もう帰りましょう。」
と友達が父に何度も言ったが、父は大丈夫と言って登り続け、僕たちは仕方なくついて行った。
 二時間と聞いていたのに、二時間半たっても着く気配が無い。父は、
「ゆっくり歩いているし休憩を何度もしたから時間がかかってしまった。」
と笑っていたが、僕たちにはもう笑う元気が残っていなかった。さらに登り続けて三十分。
「うおーーー!!」
みんなの口から一斉に叫び声があがった。突然目の前に巨大なヒマラヤ山脈が現れたのだ。七千メートル以上の山々が連なっていた。
「何だこれは…。」
あまりの大きさと美しさに、声を無くした。アヌたちも感動したようで、
「ラムロ、ラムロ(ネパール語で美しいという意味)!!」
と大騒ぎ。疲れ果てた僕は、石に腰かけてしばらくの間、
「この世界にはこんな美しい物があるのか」
と、ヒマラヤに目を奪われていた。僕の横では、アヌたちと父はまだ大騒ぎをしている。しばらくの間静かに景色を眺め、同時にアヌのことを見ていると…。突然僕の目に涙があふれ、止まらなくなってしまった。泣き声を出さないように必死にこらえたがだめだった。僕の泣き声に気付いたアヌたちは、驚いて僕に寄ってきて、
「どうしたの?どこか痛いの?」
と心配してくれた。
 しかし僕が泣いてしまったのは、体が痛いからでも、ヒマラヤの美しさに感動したからでもない。山を見て大騒ぎをしているアヌの心のさびしさが見えてしまったからなのだ。人の心が見えたなどとい言うと信じてもらえないかもしれないが、なぜかこの時の僕には見えたのだ。外国の学校でとどまっている僕をいつも助けてくれたアヌ。停電中でも、パイロットになることを夢見て、ろうそくの灯りで誰よりも一生懸命勉強していた。しかし、お金が無くて退学が決まり、家族には一緒に生活できないと言われ、これからたった一人で召使いとして他の町に働きに行くのだ。さらに、そこで稼いだお金は家族に届けるのだそうだ。こんなにも苦しい状況なのに、大声で笑っているアヌの心の悲しみが見えた時、もう僕はつらくて気持ちを抑えることができなくなっていた。
 「山を下りる前にみんなで記念撮影しよう」
と父が提案した。しかし、僕の顔は涙でひどいことになっていたので写真に写りたくなかった。だから、僕が撮影することにした。僕は世界で一番高い山々をバックにポーズとるみんなにカメラを向けた。レンズの向こう側には、真っ青な空、真っ白に輝くヒマラヤ山脈、そしてみんなの笑顔があった。しかし、アヌの目の奥にあるつらさを、僕は決して見逃すことはなかった。
「ごめんね、アヌ。かわいそうに…。でも僕は、君に何もしてあげることができない。」
シャッターを押した途たん、再び泣き崩れた。
 僕は、実際に貧しい子どもたちと共に生活をしながら、貧困について考えてきた。それにもかかわらず、僕は貧困を何か他人事のように考えてしまっていたような気がする。おそらくそれは、僕の家族は貧しくないし、僕も生活に困ったことがないからだろう。しかし、親友であるアヌが向き合っている現実を見ることにより、貧困がどれほど深刻な問題であるのか初めて本気で考えることができるようになった。
 お金が無いから必要最低限の教育も受けることができず、子どもが労働をさせられ、さらに召使いにまでされてしまう。悪い大人に売られる子どももいる。これは、ネパールに限らず世界中の貧しい国々で起こっていることなのだそうだ。
 「人は生まれる場所を選ぶことができない」
と言う。ネパールで、アヌも僕も同じくらい努力して勉強していたが、僕はたまたま日本人で親が貧しくないので、生活に困らず、今は日本の学校で楽しい生活を送っている。一方アヌは、たまたまネパールの貧しい家に生まれたために、学校もやめさせられて見知らぬ人の家で働かされている。考えてみるとこれは、とても不公平なことだ。しかし、このように運のいい人間と運が悪い人間がいて、運が悪い人間がかわいそうな思いをしているというのが、この世界の現実なのだと思う。
 僕は、この残こくな現実にどう向き合えばいいのか、日本に帰国してからずっと考え続けていた。そして、次の二つのことに取り組むことを決めた。
 一つは、しっかりと勉強して知識をつけることだ。アヌや彼の家族のような不幸な人々を助けたくても、今の僕にはどうしようもない。だから、まずしっかり勉強して貧しい人々を助けられる方法を見つけたい。二つ目は、僕がネパールで見てきた事実を人々に伝えていくことだ。この作文を書いたのも、貧しい国の子どもたちの厳しい現実を一人でも多くの皆さんに伝え、一緒に考えてほしいと思ったからだ。
 ネパールに暮らす友だちも、日本に暮らす僕や学校の友だちもみんな幸せな生活を送れるような世界ができたらいい。そしてそんな世界を作るために、僕はみんなと力を合わせて頑張っていきたい。
(指導:綿引啓友教諭)