FNSドキュメンタリー大賞
東北の小都市で娯楽を提供し続けてきた小さな映画館…
それを守りひっそりと暮らす老夫婦と、それを取り巻く人々の様々な思いを通し、人々にとって映画とは、映画館とはを考える

第8回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『銀幕人生55年 〜町を結ぶ小さな映画館物語〜』 (制作 岩手めんこいテレビ)

<10月27日(水)深夜26時25分放送>

 映画産業の斜陽化がいわれて久しいが、今年初め、国内の映画館数が11年振りに2000館を越えそうだというニュースがマスコミを賑わした。国内の映画館数は1960年に史上最高の7457館を記録したのをピークに、その後はテレビに押され長期低落し、1993年には1734館にまで落ち込んだ。ところが、その後、郊外の大規模な商業施設に併設される複合型映画館(シネマコンプレックス)が次々にオープンして人気を集めた。このシネコンブームと、「もののけ姫」「タイタニック」「踊る大捜査線 THE MOVIE」などのヒット作に恵まれたことで、映画館は息を吹き返してきたようだ。
 ところが、これが地方都市の「名画座」の話になれば、映画は相変わらずの斜陽産業のままだ。古いけれど良い映画、評判の映画を低料金で見せる映画館、いわゆる「名画座」は映画青年やオールドファンのオアシスだった。そこで上映される映画こそが、真に大衆に好まれる作品だった。この「名画座」は日本の映画文化そのものの一部だといえる。しかし、減少の一途を辿る人口、ビデオの普及を初めとする娯楽の多様化など、「名画座」を巡る環境は依然厳しいままだ。固定客を失った古き良き「名画座」の灯は消えかかっている…。
 10月27日(水)深夜26:25〜27:20放送の第8回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『銀幕人生55年 〜町を結ぶ小さな映画館物語〜』(制作 岩手めんこいテレビ)
は、そんな地方の小さな映画館を舞台に、それを守り続けてきた夫婦、そしてそれを取り巻く人たちを通して、われわれにとって映画とは映画館とは何なのかを考える作品だ。

 盛岡市の北およそ60キロメートル、青森県との県境からそう遠くないところに位置する岩手県二戸郡一戸町(にのへぐん・いちのへまち)。もともと奥州街道の宿場町として発達した一戸町だが、明治以降の町の歴史は、鉄道とともにあった。東北本線一戸駅が開業したのが明治25年。当時一戸町の先には、東北本線一番の難所といわれた中山峠があった。この難所を蒸気機関車が3台重連で、1000トンもの重量を引っ張り乗り越えたのだ。その重要な仕事を一戸機関区が担っていた。こうして当時の一戸町は岩手県北の鉄道の要衝として注目を浴びた。しかしその後、東北本線の電化が進められ、一戸機関区の重要度も減少の一途を辿り、町は次第に勢いを無くして行った。

 そんな戦前、そして戦後の復興から高度成長期に、町の人々はがむしゃらに働き、疲れた身体を休めるつかの間の憩いに、笑いと感動を求め、映画館へ走った。一戸町にある「萬代館(ばんだいかん)」もそんな時代に隆盛を誇った映画館だ。 芝居小屋として明治42年に創業、芝居や講談、民謡大会など娯楽の殿堂として繁盛した。その後、昭和の初めに映画館となり、戦前戦後を通して日本映画界が一番華やかだった時代を見つめて来た。
 現在の館主は、山火徳次郎さん(やまび・とくじろう・85歳)。「地域の人たちが支えてくれる。やめるわけにはいかない。損得抜きでも…」と40年以上も使い続けている映写機に愛しそうに目をやる。
 山火さんの人生は映画の歴史と重なり合う。旧制中学を卒業し東京の鋳物工場に技術者として就職した。戦時中は軍需工場で働いたが、体を壊して帰郷、父親の死去後映画館を女手で守っていた姉から経営を引き継いだ。その後は、県内の女性映写技師第一号の妻の光子さん(みつこ・79歳)とともに銀幕を守り続けてきた。そして二人の周囲には一緒に萬代館を支えてきた仲間たちがいた。
 近所の銭湯の主人・中崎勝次(なかさき・かつじ・69歳)は、戦後の映画隆盛期にフィルムの運搬のアルバイトをしたと言う。
「隣町の映画館とフィルムのかけもちをよくやりまた。当時は蒸気機関車の時代で、踏み切りで時計を見ながらやきもきした。そして遅れて映画館に到着すると、客が拍手で迎えてくれました。あの当時はいい時代でした」(中崎さん)
 また、旧国鉄OBの小原孝郎さん(おばら・たかお・69歳)「当時は機関区があった時代です。町も人が溢れ、機関区職員のたまり場が萬代館でした。寝る間も惜しんで映画を見たものです。有名な歌手も来ましたし、こんな小さな町にもそんな華やかな空間がありました」と当時の萬代館の隆盛ぶりを振り返る。
 東北本線が電化されたころからテレビが普及し始め、これにより萬代館への客足は一気に途絶えてしまった。映画の斜陽化、更には町の衰退…。娯楽の殿堂として、人々に夢と希望を与え続けてきた萬代館も、時代のうねりの中で次第に活力を失って行った。それでも閉館することなく、今でも現役で人々に娯楽を提供し続けている。

 そんな萬代館に最近、ある上映会の話が舞い込んだ。
 町郊外のある小学校では、町の映画館になかなか行くことのできない子供たちに、大きなスクリーンで映画を見せて上げたい、と6年前から映画上映会を催している。しかし今年は予算が足りず、開けないかも知れない。そんな相談を受けた徳次郎さんは、あることを決意する。
「小学校で『鉄道員・ぽっぽや』を上映しよう!映画会を楽しみにしている子供たちをはじめ、沢山の人たちのために…。鉄道の町だった一戸に、『映画・ぽっぽや』はピッタリの映画だ。なんとしても成功させたい…」
そんな徳次郎さんの損得抜きの熱い思いに、スタッフも共鳴する。
 果たして、上映会はうまくいったのだろうか!?

 取材に当たったのは岩手めんこいテレビ(めんこいエンタープライズ)の千葉徳雄ディレクターだ。こんなエピソードを教えてくれた。
「夏のある日、とある上映会が萬代館で行われた時のことです。夫婦にとって1カ月ぶりの上映でした。上映作品はフィルム6本から成る2時間の映画で、2台の映写機を交互に回します。1本目が終わり、2台目の映写機が回り始めたのですが、スクリーンに画が出ません。萬代館の映写機は旧式のカーボンをスパークさせるタイプなんですが、どうやらランプハウスの調子が悪いようでした。10分ほど上映はストップです。主催者側は一時騒然となったが、老夫婦はたんたんと調整をし、何事もなかったかのように、再び映写機が回り出しました。勿論、客も騒ぐことなく、この日の上映は無事終了しました」
その時、千葉Dをはじめ取材スタッフはなんとも言えない、不思議な気持ちになったという。
「焦ることのない老夫婦、騒ぐことのない客…。時間がゆっくりと流れている空間。それが萬代館…。忘れかけていた、何かを思い出した?様な気がしました。そして、萬代館が今もなお一戸町に、昔と変わらず存在していることの意味が、なんとなくですが分かった様な気がしました。そして、そんな思いに、取材に応じてくれた様々な人たちの様々な言葉が重なりました」
 「…フィルムを遅れて持って行っても、客の拍手に迎えられた…」(フィルムのかけもちをした銭湯のご主人・山崎さん)
 「…たまり場だった…」(旧国鉄OB小原さん)
「実は、『銀幕人生55年 〜町を結ぶ小さな映画館〜』というタイトルもそんな取材を終えてからつけたものです。ちょっと寂しいけれど、元気の出るドキュメント。どっこい生きている・徳次郎さんの物語です。ぜひご覧下さい」(千葉D)

 映画の灯りを守りひっそりと暮らす老夫婦、そして、それを取り巻く人々の様々な思いを通し映画とは、萬代館とはをドキュメントする。


<番組タイトル> 第8回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『銀幕人生55年 〜町を結ぶ小さな映画館物語〜』
<放送日時> 1999年10月27日(水)26:25〜27:20
<スタッフ> プロデューサー : 田山裕明(岩手めんこいテレビ)
ディレクター・編集 : 千葉徳雄(めんこいエンタープライズ)
構 成 : 千葉 悟(フリーランス)
撮 影 : 山口正年(めんこいエンタープライズ)
<制 作> 岩手めんこいテレビ

1999年10月14日発行「パブペパNo.99-342」 フジテレビ広報部