FNSドキュメンタリー大賞
宮崎市平和台公園にそびえる平和の塔。そこに彫られた“八紘一宇”の文字に隠された知られざる真実とは…
グローバルスタンダードから大きくかけ離れたニッポンの常識を問う迫真のドキュメンタリー

第8回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『石の証言 〜平和の塔の真実〜』 (制作 テレビ宮崎)

<7月13日(火)深夜26時20分放送>

 戦前、戦中によく使われた“八紘一宇(はっこういちう)”という言葉をご存知だろうか?広辞苑によれば「世界をひとつの家とすること」という意味で、太平洋戦争中に軍部が日本の海外進出を正当化するためのスローガンとして利用された言葉だ。
 実はこの言葉が今も堂々と残されている場所がある。宮崎県の観光名所のひとつ宮崎市平和台公園だ。この公園のシンボル、平和の塔の中央に彫られた“八紘一宇”の文字。そして塔の四方を取り囲む土台には日中戦争時に国内外の日本人団体や中国各地に展開していた日本陸軍部隊から送られた1700個以上にのぼる石がはめ込まれている。石が送られてから60年。塔が完成してから59年が経過し、間もなく20世紀も終わろうとしているが、実は平和の塔の正確な歴史はまったくと言っていいほど語られず、“八紘一宇”の文字の意味を知っている市民はほとんどいないというのだ。

 7月13日(水)深夜26:20〜27:15放送の第8回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『石の証言 〜平和の塔の真実〜』は、世界各地から寄贈された1700個以上にのぼる土台の石の中から日本陸軍が送った特徴のある石のルーツを中国各地で取材。日中両国の関係者の証言をもとに建設当時の平和の塔の真実を明らかにする。また軍国主義のスローガンでもある“八紘一宇”の本当の意味を探ると共に“八紘一宇”を平和の象徴にすり替えた日本人的思考の国際的な常識では考えられない矛盾、グローバルスタンダードから大きくかけ離れた日本の常識を厳しく問いかける。
 番組を取材したテレビ宮崎の坂元秀光ディレクター「八紘一宇の塔は戦争遂行のシンボルとして作られ、戦地に行った人たちの心の支えだった訳です。広島や長崎の原爆ドームが被害者としての日本のメモリアルだとすれば、八紘一宇の塔は加害者としてのメモリアルなんです。宮崎はサミットの閣僚会議の開催地に決まるなど国際社会を目指しているんですが、その一方で観光のシンボルである塔がどういう目的で作られたのかまったく語られず、タブー視され、じっと風化するのを待っているんです。今年はちょうど石が運ばれてから60年ということもあり、こうした現実に疑問を感じて取材を始めました」と語る。

 そもそも、この宮崎市の中心部の高台にそびえ立つ平和の塔は、昭和13年11月に構想が発表され、2年後の昭和15年11月に完成したものだ。当時は八紘之基柱(あめつちのもとはしら)通称“八紘一宇の塔”と呼ばれた。この“八紘一宇”の精神は日中戦争から太平洋戦争へと拡大する時代、大東亜共栄圏を理想とする大日本帝国の東アジア侵略の大義名分・スローガンとして利用された。
 “八紘一宇の塔”の四方を取り囲む礎石には1700個以上のもの切石がはめ込まれ、ほとんどの石に贈り主の名前が彫り込まれている。当時の新聞によれば、石材寄贈の依頼は「宮崎県や郡市町村を区域とする公的団体。道府県及び道府県を区域とする公的団体。樺太庁、朝鮮総督府及び各道、台湾総督府及び各州庁、南洋庁、関東州の公的団体、満州国各省、及び同区域に在住の日本人会、支那各地、独伊其の他帝国大公使館、領事館所在地日本人会、大陸又は太洋上に挺身奉公中の郷土部隊」となっていたが…。旧満州国、香港、台湾を含む中国全土に駐屯する多くの中国派遣軍部隊からも献石を受け、その数は200以上もある。
 これらの献石は宮崎県の相川勝六知事(当時)の友人の陸軍軍人の好意で自然に集まったとも言われていたが、防衛庁の防衛研究所の書庫に相川知事が当時の陸軍大臣、板垣征四郎氏に宛てた献石への協力を求めた文書が保存されているのを取材班が発見した。
 陸軍はこれを受けて構想発表から約半年後の昭和14年7月末に在満在支各軍に対して「石材寄贈については各部隊毎に各2個を標準とし、1個は軍又は部隊指令部所在地付近のもの、1個はなるべく第一線付近のものとす」「第一線においてはなるべく皇威の及べる地極限点付近のもの。遅くとも本年11月末までに送付すること」という通達を出していたのだ。そしてこの通達により、まるで手柄を争うかのように、中国全土の最前線部隊から石が送られてきたという。
 そして昭和20年8月15日に敗戦。戦争責任追及から逃れるために、いち早く軍国主義の象徴“八紘一宇の塔”から“八紘一宇”の文字が削られる。塔の呼び名も“平和の塔”に変更し、やがて平和台公園として宮崎県の観光名所の一つになった。
 その後、国民が好景気に浮かれていた昭和39年9月には平和台公園がオリンピック東京大会の国内聖火リレーの起点に選ばれ、国際舞台に再デビューすることになる。さらに翌年にはある人物の強い要請で“八紘一宇”の文字も復元され、敗戦からわずか19年で完全復活を遂げることになった。

 番組では侵略地からの石に絞り、レリーフなど特徴のある石3個、中国の歴史文化上貴重な石2個、合わせて5個の石のルーツを取材し、時代背景、日中両国の関係者の証言をもとに、建設当時の平和の塔の隠された真実に迫る。また軍国主義のスローガンとして利用された“八紘一宇”が平和の象徴としてすり替えられていく過程で露呈した国際的な感覚では考えられないニッポンの常識の矛盾を追及し、“八紘一宇の塔”の今後のあり方と平和の尊さを考える。
 「もうすぐ20世紀も終わりますが、今世紀にあった出来事に決して目を逸らすことなく、正確に見つめて欲しいと思います。広島や長崎に行く前にぜひこの宮崎の塔を真っ正面から見つめ、日本の加害者としての歴史も認識してもらえたらなあと考えています」
テレビ宮崎の坂元秀光ディレクターは、こんな風にインタビューを締めくくった。

 7月13日(水)深夜26:20〜27:15放送のFNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『石の証言 〜平和の塔の真実〜』にご期待下さい!


<番組タイトル> 第8回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『石の証言 〜平和の塔の真実〜』
<放送日時> 1999年7月13日(水)深夜26:20〜27:15
<スタッフ> プロデューサー : 弥勒 猛
ディレクター : 坂元秀光
撮影 ・ 編集 : 寺原浩次
<制 作> テレビ宮崎

1999年6月28日発行「パブペパNo.99-208」 フジテレビ広報部