FNSドキュメンタリー大賞
時代に翻弄されつつも、家族の絆や村の絆を大切にしながら精一杯生き抜いてきた満蒙開拓団員たち…
彼らの流転の半世紀を検証しながら20世紀という時代を改めて考える渾身のドキュメンタリー!

第8回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『たどりついた命の大地 〜阿蘇外輪の開拓村から〜』 (制作 テレビ熊本)

<6月9日(水)深夜26時20分放送>

 人には誰しも、生まれ育った故郷がある。それは母親の温もりにも似た聖地かも知れない。地方であろうが、都会であろうが、故郷への想いはみな同じだ。
 熊本県の阿蘇北外輪の鞍岳(くらだけ)山麓には、戦後旧満州からの引き揚げ者が集団で入植して出来た開拓村がある。村の長老・宮木 保さん(89歳)も満州引き揚げ者の1人で、妻の操さん(78歳)と共に村作りに精根を傾けてきた。村人にとって旭志村(きゅうしむら)南桜ヶ水地区は第三の故郷なのだ。

 戦前、祖国を離れ、新天地を目指して当時の満州(現在の中国東北部)に渡った日本人の数は約30万人。そして宮木 保さんが先遣隊員として加わったのがそんな開拓団の一つ、東陽熊本村開拓団だった。昭和15年、先遣隊員の宮木さんらに率いられ、東陽熊本開拓団の本体が入植したのはロシアとの国境に近い北満を流れる松花江流域だった。そしてそこで初めて知らされた開拓の実態は予想とは大幅にかけ離れたものだった。
 実は開拓団の入植に備えて用意されていた土地は開拓とは名ばかりで関東軍が現地人からタダ同然の値段で買いたたいた、いわば奪い取った農地だったのだ。大地主になれると信じ込まされていた開拓団員は、現地に入って初めてその事実を知らされた。そして複雑な思い胸に抱きながら、黙々と鍬をふるった。王道楽土を実現するために懸命に大地と向き合ったのだ。
 だが、のどかな北満暮らしもそう長くは続かなかった。満蒙開拓団の悲劇は昭和20年8月9日のソ連の北満侵攻で幕が開く。その頃、宮木さんたち男手はいわゆる根こそぎ動員で軍に召集され、開拓団に残ったのは女や子供たちだけだった。そして彼らは日本の敗戦で満州に置き去りにされ、戦争難民として死の逃避行を強いられることになる。開拓団に残った宮木さんの妻、操さんは3人の我が子を連れて暴民やソ連兵の襲撃から逃れ、祖国を目指した。しかし操さんは引き揚げまでに3人とも餓えと病気で次々に亡くしてしまったのだ

 やっとの思いで祖国に引き揚げてきた操さんら東陽熊本開拓団員の20世帯は、内地でもう一度自分たちの村を作ろうと再起を賭けて立ち上がった。夫の保さんら団の男たちもようやく2年後にシベリア抑留から帰還し、家族との再会を果たす。そして阿蘇北外輪の鞍岳山麓(菊池郡旭志村)の原野に再入植し、「第三の故郷」を夢みて村作りを始めたのだ。宮木さん夫婦も帰国後にこの開拓村で、戦後の動乱期を精一杯生き抜いてきたのだ。開拓村は風雪に耐え、やがて50年が経った。この半世紀で村は開拓2世の時代となり、入植した村民たちは離村することなく、現在でも仲良く暮らしている。宮木さん方も帰国後3人の子供に恵まれた。中にはサラリーマンになったり、米作から養豚経営に乗り出す村民もいるが、村の行事には全世帯が積極的に取り組むなど、その結束力は堅い。そして残り少なくなった古老の開拓一世たちが今やっと村の数奇な歴史を語り始めるのだった…

 番組を取材したテレビ熊本の徳永幹男ディレクター「宮木さんは徴兵検査で不合格になったことから、国のために何か頑張ってみたいという気持ちが強かったと話しています。そんな時にたまたま満州の開拓団の募集があり、迷わず応募したそうです。そして終戦後、今度は第三の故郷を作ることを夢見て阿蘇に入植した訳ですが、引き揚げ後に開拓団員が分散するケースが多い中で、なぜ彼らは分散せずに集団で入植できたのか?そのなぜという想いから今回の取材がスタートしました。我々は戦争を知らない世代ですが、日本という国や、日本の国策に翻弄されながらも家族の絆、村の人たちの絆を大切にして一生懸命生きてきた彼らの生き様を取材することで20世紀という時代をもう一度考えてみたいと思っています」と話している。
 宮木さん夫婦を通して時代に翻弄された満蒙開拓団の流転の半世紀を検証しながら20世紀という時代を改めて問う第8回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『たどりついた命の大地 〜阿蘇外輪の開拓村から〜』(制作 テレビ熊本)<6月9日(水)26時20分〜27時15分放送>にご期待下さい。


<番組タイトル> 第8回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『わが人生に悔いなし・三浦雅夫の戦後』
<放送日時> 1999年6月16日(水)深夜26:20〜27:15
<スタッフ> プロデューサー  : 窪田力雄
ディレクター : 村口敏也
撮 影 : 中岡元紀
<制 作> 愛媛放送

1999年6月2日発行「パブペパNo.99-178」 フジテレビ広報部