FNSドキュメンタリー大賞
年齢的に、また体力的に衰えを感じ始めた1人の風景写真家が挑戦した野外大写真展。
常識を覆すこの試みに写真家として勝負をかけた彼にさらなる黎明は訪れるのだろうか・・・?

第11回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『風と光のかたち〜写真家千葉克介の黎明〜』 (制作 秋田テレビ)

<11月19日(火)26:33〜27:28放送>
 十和田、奥入瀬、八甲田をはじめとする北東北の自然美の虜になり、もう30年以上もシャッターを切り続けている男がいる。生まれ育った秋田県角館町を活動拠点としている56歳の風景写真家・千葉克介である。

 千葉の名を一躍全国に広めたのは、1979年に旅行雑誌に載った北海道・富良野に広がるラベンダー畑を撮影した1枚の写真だった。これをきっかけに富良野のラベンダーブームに火がついた。旅行雑誌や出版社から注文が殺到し、千葉の写真は売れに売れた。さらにJR東日本がつくった「みちのくの小京都角館」をPRする観光大型ポスターに千葉の写真が採用されたことが、千葉の名声を不動のものにした。
 もともと千葉は地域に根ざす祭りや風俗を得意ジャンルとして写真を撮り続ける民俗写真家であった。それは、自分自身に対して、その時代に生きた証を言い聞かせる意味も含まれていた。だが、やがて民俗写真では食えないことがわかり、やむを得ず商業写真に転向した。
 北海道から沖縄までかけずり回って苦労して撮った写真を広告代理店などに売り込む日々が続いた。採用されて雑誌やポスターを飾っても出来上がったものは、原作に大幅に手を加えられたものばかりで、自分の作品とは似て非なるもの。商業写真とはそういうものと頭ではわかっていても、千葉は割り切れない気持ちのやり場がないまま酒に溺れる日々を重ねていた。

 そんな時、偶然にあの富良野のラベンダー畑と出会ったのである。ラベンダーはすでに最盛期を過ぎていたが、まだ誰も発表していない一級品の景観だった。1年後に改めて撮影に来ようと心に決めていた。だが、オーナーの口から今年一杯で畑をつぶし、来年は牧場に戻す計画だと聞かされて、千葉は大いにあわて必死になってオーナーを説得した。富良野ブームの先駆けとなったあの1枚の写真は、こうして偶然の出会いから1年後に撮影されたものである。

 千葉の作品には、ほかの風景写真家と明らかに異なる特徴がある。光や風や雨や雪など気象の変化がつくりだす自然の千変万化を見逃さず、その瞬間をまるで動画のような躍動感あふれる1枚の写真に切り取るのだ。
 この雨が止んであの雲が低く垂れこめてきたら、このブナの木と緑の葉はどんな輝きを放つのだろうか。千葉はそんな想像を繰り返しながら自然の変化をじっと眼で追い、決定的なシャッターチャンスを待つ。千葉にとっての風景とは日常の中の非日常を追求し凝縮することにある。だから、千葉がこれまでに撮りためた20万点にも及ぶ作品のどれひとつとして同じものはない。千葉が最も得意としている奥入瀬を撮り続ける理由を尋ねたら、「奥入瀬は日本庭園のルーツだから」という答えが返ってきた。陶磁器など日本の民芸のルーツに深い関心を寄せる千葉の眼には、日本人の心象の原風景と映るのであろう。

 「一定の功績を残し名を遂げた写真家が次に進むステップとは何だろう・・・。私たちはプロ魂の権化ともいうべき千葉の“その後”に注目したいと思い、昨年12月取材を開始したんです」と秋田テレビの長嶋 伸ディレクターは話す。
 取材を始めた時、千葉を取り巻く環境は、複数の大手出版社から数年前に持ち上がっていた新たな写真集出版計画が頓挫したまま宙に浮き、糖尿の持病をもつ千葉自身も年齢的、肉体的な衰えから取材回数がめっきり減っていた。
 「次に何をしたらいいのだろうか・・・?」。千葉は、正直答えが見つからないまま好きな酒を浴びるほど飲み、可愛い孫と過ごす時間を優先するようになっていた。

 長女はすでに他家に嫁にいき、20歳の長男は職に就くことを避けて妻の喫茶店を手伝う毎日。写真にはまったく興味がない。千葉は「撮りためた膨大なライブラリーを活用して何かできないか」と頭を悩ませていた。そんな閉塞感にさいなまれた千葉の脳裏に、ある日、突然のようにある考えがひらめいた。写真の常識を覆すような途方もない考えである。野外大写真展の開催だ。それも韓国の写真家仲間の誘いもあってソウルで開催しようというのである。
 野外写真展といえば昨年10月、気のおけない仲間同志で野外バーベキューを催した際に、飲み友だちのおだてに乗って座興に数点を立ち木に飾って好評を博したことがあった。まったく経験がないわけではない。写真の雨対策なら表面にラミネート加工を施せばいい。だが、額の縁と裏は木でできている以上無理な相談か。
 「ままよ、運を天に任せてやってみよう」。千葉はついに決心した。

 年明けから千葉は会場の手配や大型写真の現像、額装などの準備に追われた。ソウルに飛んで直接交渉にも乗り出した。しかし、折からソウルはW杯サッカ―の受け入れ準備で写真展どころではない。時期が悪かった。野外展ができないのなら、と今回は仕方なくあきらめた。野外展は頓挫したものの、ソウルで千葉はかねてからの念願を果たした。それは浅川巧の墓参であった。浅川巧は1920年代、朝鮮総督府の林業技師として朝鮮に渡り、兄伯教とともに知られざる李朝陶磁の美を発掘してその伝統技術を日本に伝えたことで知られる人物である。戦後、排日運動が高まっても、朝鮮人の浅川巧に対する敬愛の念だけは変わらなかったといわれ、かつては私材を投げうってまで白岩焼などの民芸に傾倒したことがある千葉にしてみれば、日本陶磁の父ともいうべき浅川巧は特別の存在だったに違いない。巧の墓参を果たした夜、千葉は美酒に酔いしれ深い眠りに落ちた。
 帰国後、これまで断り続けてきた写真教室を積極的に受け入れるようになった千葉のもとには、全国のラボやホテルからオファーが舞い込むようになった。もちろん、食うための受け入れである。場所は奥入瀬、八甲田が中心だが、求められれば小岩井農場でもどこでも出向いて気軽に質問に応じる。その際千葉がいつも取る行動は、これまで長年にわたって温めてきた撮影ポイントに中高年の生徒たちを惜しげもなく連れて行くことである。「プロが惚れるポイントはアマチュアでも撮りたいポイント」というのが千葉の持論だからである。新たなポイントを探し歩くのもプロカメラマンの仕事だと割り切っている。
 野外展の開催はもう少し時期をみてから、とのんびり考えていたところへ、地元の旧家からぜひにという協力の申し入れが飛び込んだ。土蔵の中での展示会にこだわっていた旧家が、外での開催に突然OKを出したのである。その代わり、作品を盗難などから守るセキュリティ会社との契約の都合で開催時期は既に決まっていた。開催日まで3週間余りしかない5月連休明けのことである。リスクは大きいがせっかくの申し出、迷うことなく千葉はこのチャンスに賭けてみることにした。
 それから連日作品の準備に明け暮れた。家族も応援を買って出た。縦1メートル、横2メートルの超大型写真が徹夜で次々と額に収められていった。ソウル展のために準備済みの額装が40点ほどあるとはいえ、千葉の展示目標は70〜80点。製作時間が少なすぎるが、全国に散らばる友人や知人にはすでに案内状を出しているので、いまさら後には引けない。
 会場の旧秋田藩主・佐竹家ゆかりの西宮家の庭園に運び込まれた写真は大小あわせて98点。大きい額装ばかりではアクセントに欠けて面白味がないので小品を遊びに使いたい、という千葉の配慮であった。作品はあるいは土蔵の壁面に吊り下げられ、あるいは中庭の木立ちの中に三つ又を組んで据えつけられた。2日がかりの作業には酒飲み友だちが大勢かけつけ手弁当で手伝った。日本初の野外大写真展はこうして10日間にわたり開催され、大勢の観光客ばかりでなく近所の人々もつめかけ大成功に終わった。

 長嶋ディレクターは「風景写真家として更なる黎明を自らに課している千葉さんの苦悩は、この野外写真展で果たして吹っ切れたのでしょうか・・・。角館町が生んだ全国屈指の風景写真家の心のひだをカメラで追っているうちに、千葉さんの“その後”はもしかしたら千葉さん自身の中で、もうはっきりと見えているのではないか、という気がしてきました。自らをアルツハイマーならぬアル中ハイマーと呼んではばからないこの酒飲み中年男の後半生がますます楽しみになってきました」と取材を終えての感想を話している。

 11月19日(火)26:33〜27:28放送の第11回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『風と光のかたち 〜写真家千葉克介の黎明〜』(制作 秋田テレビ)にご期待下さい。


<番組タイトル> 第11回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『風と光のかたち 〜写真家千葉克介の黎明〜』
<放送日時> 11月19日(火)26:33〜27:28
<スタッフ> プロデューサー : 石井 仁
ディレクター : 長嶋 伸
ナレーター : 山谷初男
構    成 : 井上きよたか
撮    影 : 斎藤 健
編    集 : 星野 隆
音    効 : 藤彦次郎
M    A : 山崎茂之
<制  作> 秋田テレビ

2002年10月16日発行「パブペパNo.02-281」 フジテレビ広報部