FNSドキュメンタリー大賞
17歳の女の子、佐藤理絵ちゃんはガンに冒され死期が迫っているおじいちゃんを、家族と自宅で介護し、毎日「看護日記」をつけ続けた
「日記」は理絵ちゃんからおじいちゃんに宛てたラブレター

第10回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『おじいちゃんがくれた私〜17歳 理絵ちゃんの看護日記〜』 (制作 山陰中央テレビ放送)

<5月23日(水)深夜26時55分放送>
 17歳の犯罪が増えている。バスジャック事件、岡山や鳥取で起きた母親殺害事件…。17歳というと「凶悪で個性がない」というイメージができ上がりつつある。でも、本当にそうだろうか。大半の17歳はもっと素直で、大人と子供の間で揺れながらも頑張っているのではないか。
 17歳の女の子、佐藤理絵ちゃんはそういう高校生だ。ガンに冒され、死期が迫っているおじいちゃんを、家族と自宅で介護し、毎日「看護日記」をつけ続けた
 死を全身で受け止め、悲しみにくじけそうな時もあった。そんな理絵ちゃんの背中を、将来の希望に押したのは、死んだおじいちゃんが教えてくれた「感謝の気持ち」だった。「看護日記」は理絵ちゃんからおじいちゃんに宛てたラブレターだったのかも知れない。
 5月23日放送の、FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『おじいちゃんがくれた私〜17歳 理絵ちゃんの看護日記〜』(制作 山陰中央テレビ)では、2年間の取材で「17歳」の成長を追う。


 理絵ちゃんが住んでいるのは島根県松江市魚瀬町(おのぜちょう)。日本海に面した人口500人余りの集落だ。住民の多くは漁業で生計を立てている。理絵ちゃんの家も、おじいちゃんは元漁師、お父さんは漁船の機関士。おばあちゃんとお母さんは専業主婦。そして、理絵ちゃんは松江農林高校の2年生。3世代が一緒に暮らしている。

1998年秋
 おじいちゃんがガンに冒され、全身に転移していることが分かった。佐藤家は、おじいちゃんを入院させなかった。「あとどれだけ、おじいちゃんがもつのか分からない。家族みんなで看取ってあげよう」。そう決断した。
 理絵ちゃんを中心に、おばあちゃん、おとうさん、おかあさん、おばさんなど、みんなが介護をした。
 強力な助っ人も現れた。松江生協病院の鈴木院長だ。週に1度、片道40分かけて往診してくる。そして戦友の安達さん。おじいちゃんとは、シベリアに抑留された経験から仲良くなった。安達さんは両足が不自由で人工透析患者。外出が極めて困難だが、車椅子で訪ねてくれた。

1999年2月
 おじいちゃんは、寝たきりになった。食事から下の世話まで家族でしなければならない。その中心になったのが理絵ちゃんだ。
 朝は高校に行くまで、学校が終わると飛んで帰ってきて、プリンを食べさせたり、ジュースを飲ませたり、体温を測ったり、オムツをかえたり…。座薬も入れる。17歳の女の子が、79歳のおじいちゃんの下の世話までするのだ
 もうひとつ、彼女がおじいちゃんのためにしていたことがある。それは「看護日記」をつけること。
 もともと、診察の院長やヘルパーに、おじいちゃんの体温や病状を伝えるために書き始めたものだった。いつしか日記には、おじいちゃんに対する理絵ちゃんの思いが綴られるようになっていった

1999年9月16日
 “きょうは一日ずっと目をあけていて、私が「ただいま」と声をかけると「おかえり」と返事をしてくれた。夜は涙も流され、とても痛々しい。あまり、喋らなくても手はギュッと握ってくれるので元気だなってわかる”
 彼女はおじちゃんが亡くなるまで、毎日この日記をつけた。日記を読むだけで、彼女がどれだけおじいちゃんを愛しているかが伝わってくる。
 その中に、とても重要な一日がある。理絵ちゃんは看護婦になりたいという夢を持っていた。17歳の夏、松江生協病院が行った高校生の一日看護体験に参加したのだ。
そのことをおじいちゃんにこう報告している。

1999年8月5日
 “私が一日看護婦体験から帰って、写真をみせるとにっこり笑ってくれた。「看護婦さんになれるかな」と聞くと「努力次第」と答えてくれた”
 このとき、おじいちゃんは殆ど話しが出来ない状態であったが、理絵ちゃんはこの言葉に励まされ、本気で看護婦さんを目指そうと考え始める。

1999年10月30日
 おじいちゃんは天国へと旅立った。佐藤家、皆が悲しんだ。たとえおじいちゃんが寝たきりになってしまっても、いてくれるだけで心強い。一日でも長く一緒にいたい。誰もがそう思っていた。
 理絵ちゃんはこう言っている。
 「おじいちゃんがいなくなって、ただ寂しいだけだった。おじいちゃんが家で待ってるから、毎日早く帰ってたけど、その必要もなくなってしまった」
 悲しみをどう乗り越えたらいいのか悩んだ理絵ちゃん。冬休みや春休みに、デイケアセンターでお年寄りのお世話をはじめた。
 理絵ちゃんはこうも話している。「誰かのお世話をしてあげることが楽しい。自分が必要とされていることがうれしい」。

 3年生になり、理絵ちゃんは看護婦を目指して受験勉強を始める。でも、理絵ちゃんは勉強が嫌い。中でも数学と英語はさっぱり。どうしてもその2科目が看護学校の受験に必要だ。夏休みも補習を受けて頑張ったが、問題が解けない。結局、試験を受けなかった。
 勉強もやめてしまった。「本当に看護婦さんになりたいのか分からない」。そう話すようになった。取材も「止めて欲しい」と言ってきた。自信を無くしたからだ。

2ヵ月後
 理絵ちゃんは再び看護婦を目指して勉強を始めた。苦手な数学を克服するため、担任の数学の先生に頼んで、放課後の補習を始めた。そして、遂に看護学校を受験した。
 理絵ちゃんはこう話してくれた。「最初に諦めたとき、自分が本当に看護婦さんになりたいのかわからなくなった。でも、おじいちゃんが理絵ならできる。頑張ればできるよって、言ってくれたから。それに、看護する喜びをおじいちゃんが身をもって教えてくれた。それを信じて、もう一度がんばってみようと思った」と。
 おじいちゃんは理絵ちゃんに、看護する喜びと人に感謝する気持ちをくれた。だから今度は、理絵ちゃんが看護婦さんとして、患者さんに看護されるうれしさや喜びを返していく番なのだ。

 制作を担当した山陰中央テレビ放送の奥村亜希ディレクターは語る。
 「介護を始めたころ、理絵ちゃんはこう言った。『最初はおじいちゃんに悪い気がして、ためらいがあったけど自分のおじいちゃんだよ。そんなの当たり前だよ』。17歳の女の子に出来ることでしょうか。当たり前だ、と言う理絵ちゃん。なぜそう思うのだろう、という疑問は取材を続ける過程で、だんだん分かってきました。おじいちゃんは『自分が生きているのは、周りの人のおかげ。常に感謝の気持ちを忘れてはいけない』。そんな信念の人でした。おじいちゃんは理絵ちゃんが小さなころから、その気持ちを彼女に伝え、彼女もそれを受け入れていたんだと。だから彼女は、かわいがってくれたおじいちゃんのために、今度は自分が役に立ちたいと介護を始めたのです。
 2年間、理絵ちゃんを取材した中で『人は一人では生きていけない。助け合いながら生きている。だから、感謝し感謝される気持ちを忘れてはいけない』という当たり前のことを、改めて彼女は私に教えてくれました。
 本当に当たり前のことです。あまりに当たり前だからこそ、つい忘れがちになってしまいます。でも私は、決して忘れてしまうことはないと思います。2年間、理絵ちゃんが私に語り続けてくれたからです。理絵ちゃんが私にくれたものだから‥」。
 奥村ディレクターは「看護学校に合格した理絵ちゃん。どんな看護婦さんになるかな。きっと、人の気持ちがわかる優しい看護婦さんになると思います」と締め括った。


<番組タイトル> 第10回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『おじいちゃんがくれた私〜17歳 理絵ちゃんの看護日記〜』
<放送日時> 5月23日(水) 深夜26時55分〜27時50分
<スタッフ> プロデューサー : 野津富士男(山陰中央テレビ放送)
ディレクター・編集 : 奥村亜希(山陰中央テレビ放送)
アシスタントディレクター : 宍道正五(TSKエンタープライズ)
撮    影 : 田邊福省(山陰中央テレビ放送)
音    声 : 大阪和正、加藤健太郎(共に、山陰中央テレビ放送)
構    成 : 平岡磨紀子(ドキュメンタリー工房)
<制 作> 山陰中央テレビ放送

2001年5月7日発行「パブペパNo.01-154」 フジテレビ広報部