FNSドキュメンタリー大賞
「患者の隔離政策は正しかったのだろうか?」
89年間にわたって政府が続けたハンセン病患者に対する政策を鋭く検証する渾身のドキュメンタリー!

第9回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『封印された叫び 〜国策・ハンセン病隔離の罪〜』 (制作 鹿児島テレビ)

<12月6日(水)深夜26:25〜27:20>
「二度と同じような過ちを繰り返さないためにも、この問題をしっかり検証する必要があると考え、取材を始めました」(野元俊英ディレクター)

 1998年7月、鹿児島と熊本にある国立ハンセン病療養所の入園者たちが1人あたり1億円余りの国家賠償を求める裁判を起こした。わずか13人の原告で始まったこの裁判は、やがて全国の療養所に広がり、原告数は500人を突破した。70歳代、80歳代が中心を占める原告たちはなぜ今、国に闘いを挑まねばならなかったのだろうか?
 12月6日(水)深夜26:25〜27:20放送の第9回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『封印された叫び 〜国策・ハンセン病隔離の罪〜』(制作 鹿児島テレビ)は、ハンセン病の元患者たちが療養所の中でこれまで受けてきた信じられないような人権侵害の実態を、元患者や医師の証言によって明らかにするとともに、その悲劇をもたらした「らい予防法」がなぜ4年余り前まで廃止されなかったについて鋭く検証する。

 「この裁判について取材を始めるまで、ハンセン病という病気がどういったものなのかはっきりとは知りませんでした。それに療養所というと病気になった人が一時的に入り、治れば出ていくというのが常識だと思っていましたが、取材を進めるにつれてその常識が通用しないところがハンセン病療養所だということが判ってきました」と野元俊英ディレクターは話す。
 過去に「らい病」と呼ばれていたハンセン病は「らい菌」が引き起こす感染症で、末梢神経や皮膚が冒される難病だった。戦前は特効薬もなく、重症患者は顔や手足など目に付きやすい部分が変形していったため忌み嫌われ、患者たちは社会から排除されていった。
 明治以降帝国主義の道を突き進んだ日本は、民族浄化思想のもと「らい予防法」を制定し、ハンセン病患者の絶対隔離政策に乗り出す。全ての患者を療養所に入れ、終生隔離しようというのだ。
 だが、療養所とは名ばかりで、所内では様々な人権蹂躙策が行われてきた。その最たるものが、“療養所内での結婚を認める代わりに、夫には断種(輸精管を切断する)手術を、また妊娠した妻には堕胎手術を強制した”というものだ。
 鹿児島県鹿屋市の国立療養所「星塚敬愛園」で暮らす原告の玉城シゲさん(82)も強制的に堕胎させられたひとりだ。
 「取り上げられた赤ちゃんは生きてました。7ヶ月くらいだったと思う。看護婦は私の目の前でその子に注射して殺したんです」と玉城さんは涙ながらに証言する。さらに驚くべきことに、つい最近まで多くの胎児がホルマリン漬けの標本となって療養所内の研究室に並べられていたという。

 だが、全国の療養所で行われていた患者に対する非人道的な行為はこれだけではない。
(1)逃走を防ぐために現金を取り上げ、代わりに療養所内だけで通用するブリキの硬貨を少しだけ渡していた
(2)郵便物の検閲
(3)職員不足を理由に、軽症患者に対して重症患者への24時間体制の看護を強制していた
(4)患者は療養所を運営するためのほとんどの仕事を強制され、職員を「監督」と呼ばされていた
…などの行為が繰り広げられていたという。
 「星塚敬愛園」の上野八重子さん(73)は「国立療養所ではなく“患者立”療養所だった」と当時を振り返る。
 また、こうした行為に対する患者の反発を抑え込むために、群馬県草津町にある国立療養所「栗生楽泉園」に高さが4メートルの壁に囲まれた重監房が造られた。各療養所の所長の方針に批判的だったり、逃走を繰り返す全国の患者たちが司法手続きを経ることもなく投獄され、最も長い時で500日以上も監禁されたというのだ。
 標高1000メートルを超える楽泉園は冬になると氷点下15度以下になる日もあり、飢えと寒さから獄中死した患者も多い。当時の様子を知る楽泉園の鈴木幸次さん(76)は「ここに入ることは死を意味する。全国の療養所で草津送りになるというのは恐怖だった」と振り返る。
 ハンセン病訴訟西日本弁護団代表の徳田靖之弁護士は「日本のハンセン病政策の特徴は絶対隔離で絶滅をはかる、つまり患者を社会から排除して死ぬのを待つところに本質がある」と指摘する。

 そして戦後、ハンセン病患者を取り巻く環境に2つの転機が訪れた。1つは基本的人権を謳った新憲法の施行だ。楽泉園の重監房が「人権蹂躙の施設」として国会で取り上げられ、廃止に追い込まれた。もう1つは特効薬「プロミン」の登場である。日本で最も早くプロミンを使用した医師の1人である犀川一夫医師は「本当に驚いた。重症患者の潰瘍がみるみる治り、全身に巻かれていた包帯が必要なくなった」と証言する。「不治の病」と言われたハンセン病はついに治る病気になったのだ。絶望の淵に追いやられていた患者たちにもたらされた一筋の光明。だが、国の絶対隔離の方針は変わることなく、元患者たちの社会復帰は許されなかった。一体なぜなのか…?
 実は、日本の民主改革に尽力したGHQが「日本のハンセン病政策に問題はない」と判断していたことを示す文書が残されている。
 さらに昭和26年、当時ハンセン病の医療政策をリードしていた医師たちが参議院の委員会で「未収容患者は周囲に伝染の危険を及ぼしている」「らい予防法を改正し、徹底的に完全収容してほしい」と証言。「らい予防法」は昭和28年に改定されたが、戦前の法律と中身はほとんど変わらず、隔離政策は継続された。
 これに対して国は法を弾力的に運用することで元患者たちの処遇を改善していくものの、法律自体に手をつけないまま40年以上も放置されることになってしまったのだ。
 厚生省の元医務局長で、らい予防法の廃止に尽力した大谷藤郎氏は「昭和40年代になってもハンセン病に対する厚生省内部の偏見は強かった。法律の改正を持ち出しても実現出来る見通しは立たなかった」と話す。

 野元ディレクターは「ハンセン病について正しく認識すべき厚生省が偏見を持っていたのだから、社会から偏見がなくならなかったのは当然の結果だと思います。それによって戦後社会復帰を果たした一部の元患者さんたちが今でも肩身の狭い思いをしているし、多くの人は療養所から出ることが出来なかったことを考えると憤りすら感じます」と取材を終えての感想を話している。
 日本が89年間にわたって続けてきたハンセン病の隔離政策を問う第9回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『封印された叫び 〜国策・ハンセン病隔離の罪〜』(制作 鹿児島テレビ)にご期待下さい。


<番組タイトル> 第9回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『封印された叫び 〜国策・ハンセン病隔離の罪〜』
<放送日時> 12月6日(水)深夜26:25〜27:20
<スタッフ> プロデューサー : 堂脇 悟、増留三朗
取 材 ・編 集 : 野元俊英
撮    影 : 山内誠洋、加治屋潤、西村智仁
音    声 : 神野剛一
編    集 : 山内誠洋
ナレーション : 岡部政明
<制 作> 鹿児島テレビ

2000年10月20日発行「パブペパNo.00-345」 フジテレビ広報部