FNSドキュメンタリー大賞
熊本県竜北町在住のダウン症の少年・武内亮くんと
インストラクターの二人三脚のダイビング挑戦、
その半年を追いかけた渾身のドキュメンタリー!


第13回ドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『未来がすむ海へ〜ダウン症少年のダイビング物語〜』
(テレビ宮崎制作)


<2004年12月10日(金)3時5分〜4時放送>
【12月9日(木)27時05分〜28時00分放送】



 熊本県竜北町在住の武内亮くんはダウン症の少年。2年前から父親の由典さんの趣味であるスキューバーダイビングに挑戦している。共に挑むのは宮崎在住のインストラクター、吉田茂さん。しかしそれは世界的にも前例がないような挑戦だった。知的障害を伴うことがあるダウン症の人に、どうすれば海の楽しさを教えることができるのか。そして亮くんが目にする海の世界は、彼に何を教えてくれるのか。
 
12月10日(金)放送の第13回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品(テレビ宮崎制作)<3時5分〜4時【12月9日(木)27時05分〜28時00分】>は『未来がすむ海へ〜ダウン症少年のダイビング物語〜』では、二人三脚のダイビング挑戦、その半年を追いかけたドキュメンタリーだ。

【内容】
 宮崎県は日本でも有数のマリンスポーツ地として知られている。年中の温暖な気候と恵まれた波が国際規模のサーフィン大会を招致し、ダイビングに訪れる観光客は絶えない。
宮崎県南部の南郷町にダイビングセンターを構えて23年になるインストラクターの吉田茂さんは、宮崎におけるダイビングのパイオニア。ダイビング回数は7,000回を数え、南郷町の海を知り尽くしている。吉田さんの教え子第1号は、熊本県竜北町在住の医師、武内由典さん。2人の付き合いは17年にもわたる。
 2人が知り合ったころ、武内さんに次男が誕生した。お地蔵さんのような顔で産まれた男の子、名前は武内亮くんと名付けられた。ただ、亮くんはダウン症と診断された。
 ダウン症とは、人間の持つ46本の染色体のうち、ごく一部に異常がある先天的疾病である。ダウン症の発生確率は意外と高く、1,000人に1人の割合で生まれる。知的障害を伴い、独特な表情を見せることが多いが、そのイメージで「ダウン」という名前がついているわけではなく「ダウン」という名前は、この疾病の発見者の名前に過ぎないことを補足しておく。
 衝撃の真実から16年、亮くんは幸運にもダウン症児に起きやすい合併症に苦しむこともなく、明るく元気に育ってきた。父親が開業医であり、経済的に不自由しなかったのも幸運であった。その反面、多少わがままに育ってきていることも事実であった。
 そんな亮くんが2年前、父親のダイビングに付いてきて、宮崎の海と初めて出会った。
 吉田さんは、父親のダイビングを船上から眺める亮くんの目を見逃さなかった。その目はキラキラ輝いていたという。吉田さんと亮くんのダイビング挑戦は、この日から始まった。
 吉田さんはダウン症児に対するダイビングマニュアルを探した。ところがマニュアルは存在しないことがわかった。ダウン症児にダイビングを教えることは世界的にも稀な挑戦だった。どのようにダイビングを教えていけばいいのか、自分で考えるしかなかった。
 2003年12月、宮崎市内のプールで行われた初めての練習。目にしたことのないダイビング器材に戸惑う亮くん。教えていることを理解してもらえているのか不安な吉田さん。
 水中では手のサインがすべて。その意味がわからなければ、急激な体調悪化や酸欠などのダイビング事故につながる可能性があった。2人ともまさに手探りの練習、特に吉田さんはどうやって亮くんにダイビングを教えればいいのかをしばらく考えることになった。
 16歳の亮くんは今こそ養護学校の高等部に通っているが、小中学校は普通学校に通った。亮くんの知的障害を個性だと考えていた母親の千鶴子さんは、特別学級や養護学校での就学を勧めた周りの声を振り切り、自ら教育委員会に掛け合って実現させた普通学校への入学だった。だからこそ、これまで元気に育ってくれた亮くんの将来を考えていた。16歳の亮くんが今の養護学校に通えるのも、あと1年と少し。受け皿がなくなった後の彼らをどうするのか。これはダウン症の子供たちだけではなく、他の障害者にとっても共通の問題である。バリアフリーという言葉は一般的に知られるようになってはきたものの、現実の社会に障害者が幅広く受け入れられるようになったわけではない。その原因は多岐にわたり簡単に論じることは不可能だが、障害者の側が現実社会に歩み寄れば、この問題解決に大きく寄与するはずである。
 開業医の息子として産まれた亮くんが障害以外の面で不自由なく生きてきたことが、これからの彼の人生にとってどんな影響を及ぼすのか。母親の千鶴子さんは、少なくとも今の自分本位の亮くんでは不安だった。偶然にして同じころ、吉田さんの母、貴子さんが大病に伏した。自分の母と亮くんのお母さんが重なって見えた吉田さん。亮くんの自立の必要性を強く感じた瞬間だった。
 それから吉田さんと亮くんの挑戦は単なるダイビングではなくなり、亮くんが自立するきっかけづくりとなった。手探りだった吉田さんの教え方も確信あるものに変わった。そしてどうしても吉田さんは亮くんに見てもらいたい海があった。それは鹿児島県与論島の海。そこで亮くんにしかできない亮くんオリジナルの写真を撮って欲しかった。
 周りの人に支えられて、周りの人の指示に従って生きてきた亮くんの16年。だからこそ吉田さんは、亮くんに自分の考えで、自らアクションを起こしてもらいたかった。それが亮くんの将来へつながっていくと、吉田さんは信じていた。

(ディレクターのコメント)
 この番組取材を通じて、ダウン症の発生確率の高さに驚く一方で、ダウン症について余りにも知識がない自分を恥じた。ダウン症の子は独特の風貌があってどの子も同じように見えていたが、武内亮くんにもその他のダウン症の子にも表情があり、個性があり、プライドがあった。「身障者」という言い方が身体障害者を指すとすれば、私のような人間は心に偏見を持つものとして「心障者」という言い方をするべきなのかもしれない。
 長い不況下にある現代日本は、さらなる効率化が広がりつつある。経済的にも社会構造的にも徹底的な効率化が進むと、ただでさえ難しい障害者の社会進出が、さらに厳しくなっていく。学校を卒業した知的障害者にとって現実的な社会的受け皿とは、番組でも取材した受益施設や作業所に限られてしまう。
 政治や行政に「バリアフリー社会の実現」を訴えるのも一考だが、逆に障害者が社会に近づく努力をしていく必要もあるのではないか。これは今回の番組取材を通じて自問自答した命題であった。各人に程度の差こそあるものの、ダウン症の人の社会進出は十分可能だと思う。鹿児島にはダウン症でありながら大学に進学して翻訳の仕事をしている女性もいる。
 今回、武内亮くんが挑んだダイビングは世界的にも珍しい挑戦だった。この成功を亮くん自身がどう考えているのかは、残念ながらわからない。しかし少なくとも、両親とインストラクターの吉田さんは、亮くん自身がやり遂げたことの素晴らしさを理解している。亮くんのこれからは亮くん自身にかかっているし、周りの人たちにもかかっている。亮くんはここまでやれたのだから、亮くんを過度に支えることなく温かく見守って欲しい。それは亮くん以外の障害者、そしてその家族にも言えることなのかもしれない。この番組は、さまざまな障害者へ向けて力強いメッセージを発している。




【番組制作スタッフ】
 ナレーター 高樹沙耶
 企画 坂元秀光
 撮影・編集 寺原浩次
 音声 小川泰弘
 音響効果 作田真由美
 MA 清山 慎
 タイトル 堀北益加
 美術 緒方成治
 映像アドバイザー 鬼塚 寿
 ディレクター 忠平匡胤
 プロデューサー 菅原正之
 制作 吉田啓之介
 制作著作 テレビ宮崎

2004年12月8日発行「パブペパNo.04-408」 フジテレビ広報部