FNSドキュメンタリー大賞
大分県の宇佐平野は江戸時代から先人の努力、特に南一郎平らの努力で水利が発達し、
肥沃な水田地帯として現在でも米の一大生産地としての地位を保っている。
そんな宇佐に住む中島力男さんは99歳。
去年病床についたが、彼には余り知られていない過去がある。
70年を過ぎた現在でも台湾では水の恩人として尊敬され、親しまれているのだ。その理由とは…。
人間の命の根源「水」にまつわる日台交流の一面を追う。

第13回ドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『遥かなる嘉南 〜水が結ぶ台湾・大分〜』
(制作 テレビ大分)


<9月8日(水) 午前2:58〜3:53>
【9月7日(火)26時58分〜27時53分】



大分県宇佐市の田園地帯に住む中島力男さん99歳、孝子さん93歳の夫婦。
2人は第二次世界大戦以前、台湾で暮らしていたらしいのだが、今でも台湾から2人を慕って人々がやってくるというのだ。
第13回ドキュメンタリー大賞ノミネート作品『遥かなる嘉南 〜水が結ぶ台湾・大分〜』では、自分からは決して語る事がなかった彼らの、台湾にもたらした「“水”の功績」をあらためて見直し、昭和初期から国境を越え培った日台交流を追う。

<あらすじ>
中島力男さんは宇佐農業学校(現宇佐産業科学高校)、東京農業大学卒業後、昭和2年(1927)、台湾の製糖会社に就職をした。
その頃、台湾の南部の広大な荒地“嘉南原野”では途方もない事業が展開されていた。
烏山頭(うさんとう)ダムを建設し、このダムなどから水を引くことで、18万ヘクタール(大阪府とほぼ同じ面積、大分県と熊本県の耕地面積とほぼ同じ広さ)もの農地を灌漑し、農産物の生産拡大を図ろうといういう計画だ。

この計画の推進者は石川県出身の台湾総督府技師 八田與一(はったよいち)。
烏山頭ダム完成前後、中島さんは八田技師のもとで働くことになる。
中島さんの主な仕事はダムからの水を田畑に引くための水路作り、完成し張り巡らされた水路にどれくらいの水を放出するかの管理である。

八田技師が台湾を去り、任地に赴く途中の海上で戦死した後、水利課長となった中島さんの活躍と苦労は終戦間近まで続き、その後も台湾省の留用として1年余現地で指導にあたった。

ふるさと宇佐に帰郷した中島さんは中学の教師などをして現在を迎えているがその間、台湾での功績や苦労をほとんど語ることも無く、地元の人も中島さんがどのような活躍をした人か知る由も無かった。
しかし、計画給水、計画生産に則った台湾南部の農業は台湾一の農業生産地として現在でも引き継がれ、台湾の人々は中島さんの功績を忘れてはいなかった。

八田技師の死後恩人のためにと大きな墓がダムのほとりに建てられ、中島さんへも台湾に生前墓が建てられ、現地の人たちの感謝は3代を経た今でも続いている。
戦後数回にわたり現地を訪れた中島さん家族は大歓待を受けたほか3年前は嘉南農田水利会の主要メンバーが宇佐市を訪れ表彰状を送ったりして交流は深まるばかり。

中島さんは言う「私たちが台湾に残したものは水利と教育です」単に仕事として続けてきただけに過ぎないという中島さんの行動だが、現地の人にとってみるとまさに「井戸を掘った人の恩義は永遠に忘れない」ということだろう。

井戸を掘った人、水路を広げた人、そしてそれを受け継いだ人々。
知られざる昭和初期から現在へと続く日台交流の一面を追うとともに、人間の命の根源「水」の恩恵をあらためて考える。




<スタッフ>
 ナレーター 小笠原正典(テレビ大分)
 構成 森 久実子(フリー)
 撮影 宮本洋一
 編集 宮本洋一
広瀬泰弘
 音声 板井雅也
 MA 小田健敏
 プロデューサー・ディレクター 岩尾保次(テレビ大分)



<制作者の思い:テレビ大分制作部 岩尾保次>
地元の取材を長年続けている私達でさえ、中島さんの存在を知ったのは数年前、「台湾の嘉南水利会の人々が、大分県の宇佐を訪れた」と新聞記事で読んだ時である。
それくらい大分県内の誰も知らなかった人物が、実は“凄い人”だったわけである。

私が中島さんに最初にお会いしたのは去年の7月、夏の暑い日だった。
明治生まれにしては背が高く、頑丈な体躯で、足や耳はやや衰えているもののしっかりとした口調でお話になるのが印象的だった。
普段穏やかで静かに「いつもお世話になります」とおっしゃる中島さんだが、台湾や水利の事となると、途端に饒舌になり会話は果てしなく続く。
何故今まで台湾時代のことをあまり話さなかったのか伺うと「15万町歩、1万6千キロといってもピンと来てもらえないし、その広さ長さを理解してもらえない。だから何も話す必要はないと思っていたんですよ。」とおっしゃるが、その実は自分の実績を誇る事をされない、不言実行の明治人の気骨を持った方なのだ。
中島さんご夫婦は宇佐市内の最高齢夫婦で、93歳の奥さんも淡々と台湾の話をされるが、これがまた夫のしゃべりと絶妙の呼吸があって小気味よい。
取材は、インタビューと2度にわたる台湾撮影を中心に進めた。
しかし去年秋、中島さんがカゼをひいて寝込み、年末にはほとんど意識がなくなってしまうほどの重篤になられた時にはさすがにショックだった。一時はこれまでかと思いつつお見舞いに伺う日々だったが、頑強なからだとご家族の厚い思いが通じて奇跡的に回復され、春先には杖で歩けるようになられた。そしてその後のインタビューでは「新聞をスミからスミまで読むことが唯一の楽しみ」とおっしゃるほど常に前向きに貪欲に情報・知識を求めるその精神力を復活させる姿には、あらためて頭が下がる思いだ。
青春時代を精一杯駆け抜け、台湾の人々に思いをはせる99歳の中島さんがそこに居た。
その中島さんへの最高のプレゼントは、番組で徐水利会長が言った「来年の中島先生の誕生日はぜひ台南で迎えてほしい」という一言。
中島さんのご家族もぜひ行かせてあげたいと言っており、その際はまた台南取材だと思う今日この頃である。


2004年08月30日発行「パブペパNo.04-261」 フジテレビ広報部