<あらすじ>
第二次世界大戦下、ポーランドに作られたアウシュヴィッツ強制収容所。ナチスドイツの人種浄化の名のもとに、150万人以上の命が奪われた。家畜用の鉄道貨車に詰め込まれ、収容所に送り込まれた人たちを待ち受けていたのは、ガス室での死と絶望の強制労働であった。アウシュヴィッツの狂気は、今なお「人間が人間でなくなること」の残酷な事実を突きつけてくる。
アウシュヴィッツを見つめ続けてきた、青木進々という男がいた。グラフィックデザイナーとして、日本とパリを行き来する華やかな生活を続けていた彼は、たまたま仕事で出かけたポーランドの書店で、一冊の画集を手にした。『子供の目に映った戦争』これが、その本のタイトルであった。ナチスドイツの侵略を受け、国民の5人に1人、実に600万人が殺戮されたポーランド。その記憶を忘れないようにと、全国の子供たちに呼びかけて作られたのが、この本だった。ナチスに連れ去られる家族、街中で行われた公開処刑、そこには、戦争に翻弄される子供たちの「抗議の目」があった。青木は、体が次第に熱くなり、手首も腕も硬直していったと振り返る。
青木は、何かにせきたてられるように平和運動にのめりこんでいった。画集の日本語版の出版、原画展の開催、そして、心に刻むアウシュヴィッツ展の全国110箇所での開催。運動の総決算として栃木県塩谷町に建設したのが、「アウシュヴィッツ平和博物館」である。青木は言う。「人間が人間に対する極限の犯罪を見据えていかない限り、平和の鍵を手にすることはできない」…。
しかし、この博物館は、財政上の問題から、たった2年で閉館に追い込まれてしまう。
「なんとか運動を継続したい…。」精力的に活動を続ける青木に、追い討ちをかけるように新たな衝撃が襲った。「末期ガン」の宣告である。
やっと見つかった移転候補地、福島県白河市で、青木は語った。「ずいぶん悩みましたけど、私の求めていた価値観は平和なんだと。そのテーマに、私がアウトになるまで、くたばるまでタッチできるのは、逆に喜びである」と。しかし青木は、博物館の新しいスタートを見る前にこの世を去った。
4月20日、青木の遺志を継いだボランティアスタッフが、アウシュヴィッツ平和博物館を白河の地に再建した。当初予定していた博物館の規模は、大幅な縮小を余儀なくされていた。古い民家を移築した、わずか100平方メートルの小さな博物館である。収容された人々が着せられていた「囚人服」、ぼろぼろの「木靴」、ひとつひとつの「遺品」が、見る者に何かを訴えかけてくる。
ボランティアスタッフは、自分たちの取り組みの原点を目に焼き付けようと、ポーランドのアウシュヴィッツ博物館へと向かった。戦争が生んだ「絶滅収容所」で彼らの見たものは、一体何だったのか? そして、彼らの活動は、今後どんな方向に向かうのだろうか…。
<制作担当者のコメント:福島テレビ 柿崎浩一>
照れ屋で、強がりで、それでいて情熱家。話をしていると、どんどん惹き込まれていく魅力たっぷりの人…初めてお会いした時の青木進々さんの印象です。華やかなデザイナーの職を投げ打って、平和運動にのめりこんでいった青木さんのもとには、いつも多くの若者の姿がありました。青木氏は、そうした「戦無世代」の若者と、時には激しく口論し、時には酒を酌み交わしながら談笑していました。誰に対しても「目線」が変わることはありませんでした。
戦争の世紀を経て、21世紀を迎えた今、依然として世界中に戦争の火種は絶えません。
青木さんは、アウシュヴィッツを「遠くの国で、はるか昔におきた出来事」と放置しないで、真摯に向き合ってきました。生涯を通じ、あらゆる人間の心の奥底に潜む「アウシュヴィッツ」を問いかけてきました。「平和は大切」…言葉で言う事は簡単ですが、その平和を守るために、私たちは、一体何ができるのだろうか…取材を終えた今、あらためて自問自答しています。
青木さんが亡くなった今、ボランティアがその志を継ごうとしています。白河市にできた小さな小さな博物館は、多くの人々に、青木さんの蒔いた「平和の種」の意味を問い続けています。
<プロデューサー> |
田村泰生(福島テレビ) |
<ディレクター> |
柿崎浩一(福島テレビ) |
<語り> |
浜中順子 |
<撮影> |
加藤宏樹(福島テレビ)
箭内憲司(福島映像企画)
高橋信宏(福島映像企画)
櫻井修一(福島映像企画) |
<編集> |
長瀬勝喜(福島テレビ) |
<制作> |
福島テレビ |
2003年10月2日発行「パブペパNo.03-292」 フジテレビ広報部