2012.10.19
<10月30日(火)26時50分~27時45分>
2011年3月11日、未曾有の大地震と津波が東日本を襲い、原発のメルトダウンのため帰れる時期も定まらぬまま故郷を追われ、町全体が集団移転する被災者の苦しみが続いている。国や自治体のリーダーシップは迷走を続け、防災に対する国民の信頼が揺らいでいる。
100年以上前の明治36年。沖縄でも火山の噴火で、島壊滅の危機に陥った大災害が起こった。今回の東日本大震災に比べて規模こそ小さいものの、電話も飛行機もない明治時代に、10カ月という短期間のうちにひとりの犠牲者も出さず島民全員をそっくりそのまま別の島(久米島)へと移住させた事実は決して小さくはない。世界に例のない島ぐるみ全員移住を指導したリーダーの名は、佐賀から沖縄に渡った島尻郡長・十一代齋藤用之助。今でも沖縄の移住民の子孫たちは十一代を「神様」と呼ぶ。しかし、その事実を知る県民はほとんどいない。
ヤマト(本土)を忌み嫌う風潮の強かった当時の沖縄で、佐賀から来た行政マンがどのようにしてウチナンチュウ(沖縄の人)に受け入れられたのか。移住に際してどんなリーダーシップを発揮したのか。なぜ100年以上たっても、子孫から「神様」と呼ばれているのか。番組制作の狙いはそれをひも解くことにあった。
十一代齋藤用之助は元佐賀藩士。その祖先は武士の生き方を記した佐賀の書物「葉隠」にも登場するほどの無骨な武士。初代は佐賀藩の藩祖からとても信頼され、用之助という名前を拝命。その後代々襲名を義務付けられ、現在佐賀市に住む用之助さんは十四代目となる。初代から三代続けて藩主の死に殉じ切腹(追い腹)をするほどの忠義心の強い先祖。佐賀藩主に敬愛された齋藤一族だが、日々の暮らしにも難儀するほど世渡り下手な武士でもあった。十一代用之助が沖縄に渡り功績を残した背景には、この無骨さからくる庶民目線が強く作用していた。
明治36年に起きた沖縄の硫黄鳥島噴火に際し、十一代は島民の意識調査をするが、多くの賛成のなかにも故郷を捨てて移住することに戸惑う島民もいた。用之助は多数決をとらず、移住に反対したり不安視する島民の意見を聞き、納得のいくまで話し合いを繰り返した。しかも、日露戦争直前という国難の中、政府に軍艦も派遣させ巨額の移住費補助もとりつけ、移住予定地には家も畑も確保した。そのうえ家畜や家財道具の他、墓や島民の心である御嶽(うたき)まで移住させると提案した。その結果、島民大会において移住は全員一致で決定された。移住した島民に向かって用之助が語りかけた言葉。「もう帰る場所はない。これからこの地をみんなのふるさとにするのだ」。108回目を迎える今年2月11日の久米島町字鳥島地区の移住記念祭。大恩人に感謝しその思いを子孫に引き継ぐために、地区では盛大にお祭りを続けている。明治12年に琉球王国をつぶしたヤマトから来た行政マンを、「神様」とまであがめ続けている事例は沖縄では他に見られない。そのポイントは人々の「心」まで移住しようと提案したことにあった。
十一代齋藤用之助が沖縄民衆の中に溶け込み、庶民目線の政治を推し進めていった歴史的事実を現代の指導者や国民に問いかけ、大災害時の「指導者たちのリーダーシップ」を考える。
「100年以上前のドキュメンタリー番組づくり。当時を知る人の証言は撮れない。どう制作しようかと悩み、幾度も沖縄の小さな集落に足を運んだ。そこで強く感じたのは、移住民が“神様”と呼ぶ十一代に対する感謝の気持ちが、今も途切れず脈々と子孫に受け継がれている不思議さだった。明治期の琉球の人々が嫌っていたヤマトから来た行政マンが、どうして“神様”と呼ばれるまで受け入れられたのだろうか。番組はその解明に主眼を置いた。そして現代日本。福島第一原発事故で故郷を追われ、帰るあてもない多くの避難者の不安と不満。解決の道筋も示せず、迷走が続くこの差は何だろうか。それは指導者の“決断”と、被災者の“心”まで移住させようとする強い思いと感じた。この小さな島の移住物語が、現代社会のひとつの参考になれば幸いだ」
第21回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『大災害時のリーダーシップ~沖縄で神様と呼ばれた男・十一代齋藤用之助~』
(制作:サガテレビ)
10月30日(火)26時50分~27時45分
2012年10月18日発行「パブペパNo.12-374」 フジテレビ広報部
※掲載情報は発行時のものです。放送日時や出演者等変更になる場合がありますので当日の番組表でご確認ください。