<企画意図>
長崎県の小値賀島には20年以上、一人で島の医療を担ってきた医師がいる。
田中先生と呼ばれ島の人々からの信頼も厚く「赤ひげ」のような存在だ。島で医師を続けていくことは並大抵の苦労ではなかったが、それでもかつての苦悩は乗り越えたかのように見えていた。しかし田中医師の過労、重圧、孤独はあまりにも深かった。島の美しい自然や人情だけでは医師をとどまらせることができない。離島医療の厳しい現実に迫る。
<番組内容>
日本で一番島が多い長崎県は離島の医師不足に直面している。島に医師が派遣されてもなかなかなじめず途中で島を去ってしまう医師が跡を絶たない。五島列島の北部、小値賀島には島で唯一の診療所がある。ここで20年以上、島の医師として働いている
田中敏己医師(56歳)は小値賀島に生まれ育ち北里医大を卒業して35歳の時、故郷に帰ってきた。大きな希望を胸に赴任した田中医師だったが、厳しい現実が立ちはだかる。田中医師を小さい頃から知る島の年長者たちは先輩意識が強く、若僧医師なんて簡単に信用できないと認めようとしなかった。島特有の密接な人間関係はかえって厚い壁となって田中医師にのしかかった。
医師として技術に自信を持っていても、それだけでは島の人々の心は開くことはできない…そして島でただ一人の医師だという重圧と孤独の中、次第に孤立感を深めていった。
田中医師は40代の頃何度もくじけそうになった。先端医療から取り残されてしまう不安と島の人々を見捨てることができないという狭間で苦しみ荒れた。島を逃げ出したくて飛行機をチャーターし、長崎市内の繁華街で酒を浴びるように飲んだ。それでも急患の連絡が入り、1時間もたたないうちに島に呼び戻された。辞めさせてほしくて病院の窓やドアも壊した。
島に踏みとどまったのには二つの理由があった。幼い頃の悲しい記憶…自分が去った後、もう二度とこの島に定着する医師は現れないだろうという思い…田中医師にとって島はいきがいと苦悩の両方を持ち合わせていた。
小値賀島は三つの小さな島を周辺に抱えている。田中医師は診療所での診察の合間を縫ってそれらの島々へ船で往診する。そしてまた夕方には診療所に戻って今度は入院患者の診察を行う。島々の風景はのどかで美しい。ただそこに人が住んでいるかぎり、必ず病人もいる。田中医師をめぐる島の医療は本人の苦悩をよそにこれからもずっと同じように続いていくのかに見えた。
この4月大きな出来事が起きた。田中医師が町に辞表を出したのだ。一人で島の医療を担わざるを得ないという長年のプレッシャーの中で、いつしか田中医師は酒に酔うことで束の間の開放感を味わうようになっていた。過労により心身ともに疲れ果てうつ状態に陥っていたのだ。田中医師はとうとう島を離れることを決意した。田中医師は小値賀島が大好きだった。住民の健康と生命を守ることを一生の仕事と決意し、ひたすら誠実に医療を続けてきた。そのような医師でさえ20年はあまりにも長かったのかも知れない。番組ではきれいごとではない離島医療の厳しい現実をみつめ問題点をえぐり出していく。
<清水輝子ディレクター コメント>
島を離れる決断をした「赤ひげ」はとても苦しんでいました。そんな時に「撮らせてもらってもいいですか?」とお願いしなくてはなりません。私にその資格があるのか迷いながら、一方で離島医療の現実はここにあるのだと強く感じていました。
「赤ひげ」は優しくて威張らない人間味あふれた医師でした。島を去る日が近づくにつれカメラを向けると「もう勘弁してくれ」と度々言うようになりました。取材を中断して出直すことも増えていきました。島を去る寂しさと悲しみで「赤ひげ」の心は張り裂けそうでした。それでも取材に応じてくれました。「赤ひげ」は島の人々と別れる時、手を振りながら涙を抑えることができませんでした。泣きながら顔をあげることができなかった「赤ひげ」の姿は今でも私の心に焼きついています。
<番組概要>
◆番組タイトル
第16回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『赤ひげの離島』
◆ スタッフ
プロデューサー | | 山本正興 |
ディレクター | | 清水輝子 |
ナレーター | | 勝村政信(俳優) |
撮影・編集 | | 井上康裕 |
撮影 | | 矢竹 亮 |
タイトル | | 冨永佳宏 |
現場録音 | | 増山裕介 ・ 矢竹憲介 |
音響効果 | | 高田暢也 |
MA | | 駒路健一 |
制作著作 | | テレビ長崎 |