FNSドキュメンタリー大賞
ハンセン病百年の歴史の中の真実を知り、ハンセン病の悲劇の本質を求めてゆくドキュメンタリー

第16回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品

『ハンセン病、迷宮の百年〜医師たちの光と影〜』

(制作:テレビ熊本)

<2007年10月15日(月) 深夜2時25分〜3時20分放送>

 第16回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『ハンセン病、迷宮の百年〜医師たちの光と影〜』(制作:テレビ熊本)は、ハンセン病百年の歴史の中の真実を探りながら、ハンセン病の悲劇の本質を求めてゆく。


<企画意図>

 1907(明治40)年に制定された「癩予防ニ関スル件」という法律は、ハンセン病患者に対して、収容・消毒・届出など強制措置を規定した最初の法律である。
 当時1万人とも2万人とも言われた患者のうち、500人あまりが収容された。百年前のことだった。それは弱者救済でもあり、浮浪者を収容するという性格のものだった。
 ハンセン病がまだ、遺伝病だと信じられていた頃、明治政府の無策の前に、来日した多くのキリスト教宣教師によって各地にハンセン病救済施設が作られた。その後、ハンセン病は「遺伝説」と「伝染病説」が議論される中で、医学的に「伝染病説」が認められるようになった。
 のちに「救らいの父」といわれた光田健輔(1876年生まれ)は、そんな時に「らい医師」を目指した。「怖い伝染病であるらい病は隔離すべし」という考えを推進したのだ…。
 誤った国の政策がどのように形成されたのか。医学が、医師たちがなにをし、なにをしなかったのか。この番組では、ハンセン病百年の歴史の中の真実を知り、ハンセン病の悲劇の本質を求めてゆく。



<番組内容>

 「らい予防法」という法律は「らい患者すべて(浮浪している患者、自宅で療養している患者すべて)をらい療養所に入所せしむべし」と規定している。そのことは「国家の強制隔離政策」と指摘されている。
 ハンセン病療養所に入所することは、一生をそこで過ごさなければならないことを意味すると言われていた。なぜそうなのか。それは「らい予防法」という法律に「退所規定」がなかったからである。普通の病院であれば、病気が治れば「退院」する。らい療養所は「入り口はあっても、出口はない」と言われた所以である。
 日本の歴史上、ハンセン病あるいはハンセン病患者についての法律ができたのは1907(明治40)年で、「癩予防ニ関スル件」という法律が最初である。それは主に「浮浪者を収容し、救護する」ということを第一の目的とするものであり、国の体面の問題から制定を促されたという側面があった。
 しかし、その後「ハンセン病対策」は大きく変わる。すなわち、当時の優生思想にもとづく国策がハンセン病を「恐ろしい病気」にしてしまったのだ。
 ハンセン病に関する法律は、1931(昭和6)年「癩予防法」と改正され、すべての患者を隔離する法律となった。退所することができない法律が制定されたのだ。
 その時代、ハンセン病に対する有効な薬もなく、入所者も療養所の中で、宗教や文学に逃避して生きるしかなかった。療養所は患者を隔離し、その死を待つしかない収容所と化していたのだ。
 戦後、強制隔離を規定している「癩予防法」改正の動きがあった。プロミンという特効薬が開発され、ハンセン病が「治る病気」になった時に、国は法律改正を上程した。しかしそれは「隔離」から解放するものではなかった。療養所の中からの反対運動を無視し、戦前からの「隔離」は堅持され、「退所規定」もなく、文語体の旧法を口語体に変えただけの法律だった。日本のハンセン病政策は世界の潮流を無視したものとなり、国際的に批判をうけるものだった。それでも、「らい予防法」は戦後50年にわたって存続することになる。
 ハンセン病は紀元前から存在した病いで、長い歴史の中でも、業病・天刑病などといわれて差別されてきた。その「差別」は、外見上の病状から「けがれ思想」を背景にした宗教観、「遺伝病」という偏見、「不治の病」という恐怖感、そして国は隔離政策を推進するために、差別を放置し無視し続けたこと、このようなことが、ハンセン病にたいする差別・偏見の原因と言われる。
 一方、ハンセン病という病気は医学の歴史の中で、どのように取り組まれてきたのか? 1873(明治6)年ノルウエーの医師ハンセンが「らい菌」を発見した。そして1897(明治30)年の第一回国際らい会議で「癩病」が遺伝でなく伝染病(感染症)であると医学上確認された。
 日本で「癩病」に取り組む医師は、多くはなかったようだ。1876(明治9)年、山口県に生まれた青年医師光田健輔は、東京市養育院という病院で「癩患者」を見て、「癩医師」になることを志す。光田健輔は国際らい学会の考え方を先輩医師から聞くことになる。そして「らいは遺伝病ではなく、怖い伝染病です。隔離しなければならない」と主張した。光田健輔は時の政府要人らにそのことを訴え、1907(明治40)年「癩予防ニ関スル件」という法律の制定に尽力することになった。その後、光田健輔はハンセン病病院の医師となり、療養所の所長となり、「救らいの父」とまで言われ、大きな役割を果たすことになる。
 ハンセン病100年の歴史の中で、善意と献身に満ちた医師たちがハンセン病と取り組んできた。国家の「出口のない強制隔離政策」を前にして、医師たちはどのように病気に立ち向かい、そして患者たちとともにどのように闘ってきたのか。
 戦後、ハンセン病の特効薬が発見され、「治る病気」となったハンセン病は大きな転機を迎えた。人権意識がはぐくくまれた療養所の内外で、「隔離政策」が指弾されるようになる。
 誤った国の政策がどのように形成されたのか。医学が、医師たちがなにをし、なにをしなかったのか。この番組では、ハンセン病百年の歴史の中の真実を知り、ハンセン病の悲劇の本質を求めてゆく。



<ディレクター・嶺 厚のコメント>

 熊本には国立療養所菊池恵楓園があります。1909(明治9)年、全国に5ヵ所のハンセン病療養所が設置され、九州では熊本に設置されたのです。
 菊池恵楓園は戦後まもなく日本国内13の療養所の中で、最大の施設となり、今日も最も多くの入所者がいます。
 歴史を見ると、近代日本のハンセン病対策は明治20年代外国人宣教師による救済施設が全国各地に作られることから始まりました。当時、ハンセン病患者は多くの場合自分の村を追われ、寺社などに浮浪していたといわれています。熊本の本妙寺や群馬・草津温泉などが有名です。そして熊本ではイギリス人宣教師ハンナ・リデル女史によって明治28年「回春病院」が創設され、患者が収容・救済をうけました。
 熊本でのハンセン病の歴史は、そこから始まりました。
 「回春病院」の近くに第五高等学校がありました。宮崎松記という五高生はリデル女史の仕事を目の前にして「救らいとはなんと尊いことか」と感動し、ハンセン病医師への道を選びます。東京で光田健輔という医師がハンセン病と格闘している時、熊本の青年宮崎松記はハンセン病医師をめざすのです。このように医師たちは献身的に熱意をもってハンセン病と取組むのですが、現実には国の隔離政策を正当化し、推進することに力を貸し、「善意からの犯罪」と指弾されることとなるのです。
 医師宮崎松記は1934(昭和9)年から1958(昭和33)年まで24年間菊池恵楓園の園長として働きました。
 菊池恵楓園の高齢の入所者は、宮崎松記園長のことを異口同音に語ります。「父であり、医師であり、管理者であり、三つの顔があった」というのです。
 文化勲章を受け「救らいの父」といわれた光田健輔、晩年渡印しインド救らい事業に尽力し、「日本のシュバイツアー」とよばれた宮崎松記、ふたりの医師のハンセン病への取り組みの中に、日本のハンセン病政策の実際が見て取れます。
 1996年「らい予防法」が廃止される1年前、日本らい学会は反省と自己批判の見解を発表しました。「日本らい学会が、これまでに現行法の廃止を積極的に主導せず、ハンセン病対策の誤りも是正できなかったこと、長期にわたって現行法の存在を黙認したしたことを反省する」と。
 ハンセン病百年の歴史の中で、医師たちは国の政策に翻弄されたのかもしれません。「隔離を最善と信じた」医師たちの過ちを指弾する人々がいます。
 また一方で、医師たちの献身と熱意に尊敬の念をもって応じた入所者の人々が存在するのです。医師たちの光と影を追います。



<番組概要>

 ◆番組タイトル 第16回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『ハンセン病、迷宮の百年〜医師たちの光と影〜』
 ◆放送日時 2007年10月15日(月) 深夜2時25分〜3時20分 放送
 ◆スタッフ
  プロデューサー 沼田健吉
  脚本・構成 南川泰三
  ディレクター 嶺 厚
  撮影 川口 忍
  撮影助手 岩永崇功
  編集 可児浩二
  MA 森 仁(U2)
  ナレーション 藤田淑子(青二プロ)
  制作著作 テレビ熊本

2007年10月11日発行「パブペパNo.07-307」 フジテレビ広報部