FNSドキュメンタリー大賞
日本では想像すらつかない悲惨な生活をおくりながらも
しっかりと夢を追いつづけるエイズ遺児の子供たち…。
「ウガンダでエイズ遺児のための孤児院と職業訓練所を建設したい…」と言う、
元・アナウンサー永谷裕香さんの姿を追う。

第16回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品

『希望のない丘〜アフリカのエイズ遺児を救え〜』

(テレビ西日本)

<2007年4月28日(土)深夜3時45分〜4時40分放送>

 1982年にアフリカで初めてAIDS発症者が見つかったウガンダ共和国。その後、AIDSは、爆発的に国内に広がりを見せた。その後、1986年に就任したムセベニ大統領がAIDS対策を「愛国者の責務」と明言したことから、国の緊急対策としての取り組みが始まった。
 あれから20年。国を挙げてのHIV/AIDS予防・啓発やケア・サポート、学校での性教育などで、ウガンダでの感染率は30%から現在、6%にまで減少したといわれるが、その統計の精度への疑問が残るのが現状である。
 そんな中、ウガンダで長年にわたり深刻な問題となっているのが、エイズで親を失ったいわゆる「エイズ遺児」の問題で、ウガンダでもその数は増加の一途をたどっている。エイズ遺児は、国際NGOの団体などから多少の援助は受けられるものの、学校への就学率は依然低く、たとえ学校に通えたとしても自分自身で働き、そのわずかな収入での生活を余儀なくされている。HIVに対する教育も受けることができず、エイズ遺児だけで貧しい家に暮らし、13歳の少女の仕事のみで生計を立てる4人の兄弟。父親をAIDSで亡くし、自身もAIDSに侵され、その事実を誰にも言えず孤独な毎日を送っている14歳の少年など、ウガンダでのエイズ遺児の真実は日本ではあまり知られていないのが現状である。
 「そんなウガンダのエイズ遺児の現状を知ってもらいたい」。2005年9月までの1年間、ウガンダで多くのエイズ孤児を前に教壇に立った1人の日本人女性が、テレビ局の女性アナウンサーという立場を捨て、新たなる道をスタートさせた。
 永谷裕香さん、29歳。2006年4月、現地の言葉ルガンダ語で「親しい友・愛するもの」という意味を持つ「ムクワノ会」を仲間4人と立ち上げ、2年後にウガンダのラカイ地区に孤児院と職業訓練所を設立することを目標に活動を始めた。ウガンダの子供たちによる絵画展の開催や数々のイベントを企画するなど、日本とウガンダとの橋渡し役となるべく、2006年9月、1年ぶりにウガンダの地を訪れた。1年ぶりに現地を訪れた彼女が目にしたエイズ遺児の現状とは…、そして自分自身の活動が日本サイドの空回りだったことも認識した。
 4月28日(土)放送の第16回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『希望のない丘〜アフリカのエイズ遺児を救え〜』(制作:テレビ西日本)<深夜3時45分〜4時40分>では、国を挙げてエイズ対策に取り組んでいるウガンダの政府機関、医療機関、NGO団体などの20年間の成果と課題、そして、エイズ遺児であるために精神的苦痛や貧困、差別などを受ける少年少女にスポットを当て、彼らの日常生活(学校・家・仕事)に密着するとともに、エイズ遺児のための孤児院設立を目指す永谷さんのウガンダでの視察風景などを交えながら、「エイズ遺児の真実」に迫る。

☆制作担当者のコメント テレビ西日本報道局報道部 高橋 徹

 「ウガンダでエイズ遺児のための孤児院と職業訓練所を建設したい…」。元同僚の永谷裕香さんが発した一言が今回の番組制作のきっかけでした。
 永谷さんが孤児院建設準備のため、2006年9月にこの地を訪問。僕らクルーも永谷さんに同行し、エイズ遺児の現状や国のエイズ対策などの取材を行ってきました。日本から飛行機を乗り継ぐこと24時間、ウガンダ到着後すぐに我々の目に飛び込んできたのは、遺児たちの悲惨な生活ぶりでした。しかし、そのような生活を強いられながらも遺児の一人は、僕らに「将来はドクターになりたい」と目を輝かせながら話してくれました。
 また、一緒に働いていた頃は頼りない印象だった永谷さんも、現地では、当時とは180度違う一人の女性として成長を見せていて、彼女が「まだようやくスタートラインに立っただけ」と話したその顔が、心に刻まれました。


<番組スタッフ>

 プロデューサー 坂田正彦(テレビ西日本)
 ディレクター 高橋 徹(テレビ西日本)
 構成 徳丸 望
 ナレーター 室屋典子
 撮影 清水一郎
 編集 利光英樹
 音声 増川和彦
 選曲・効果 西 博司
 制作著作 テレビ西日本

2007年4月25日発行「パブペパNo.07-115」 フジテレビ広報部