FNSドキュメンタリー大賞
公害の原点といわれる『水俣病』が2006年で公式確認から節目の50年を迎える。
変わらない行政の体質の中、水俣病史上初めて行政責任を追及し、
「水俣病第3次訴訟」(昭和55年)の裁判長を務めた相良甲子彦さん(73歳)の、
判決に至るまでの想いを伝える。

第15回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品

『断罪の核心〜元裁判長が語る水俣病事件〜』

(制作:テレビ熊本)

<9月1日(金)深夜3時55分〜4時50分放送>

 9月1日(金)深夜3時55分〜4時50分放送の第15回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品『断罪の核心〜元裁判長が語る水俣病事件〜』(制作:テレビ熊本)は、変わらない行政の体質の中、水俣病史上初めて行政責任を追及し、原告全面勝訴となった「水俣病第3次訴訟」(昭和55年)の裁判長を務めた相良甲子彦さん(73歳)の、判決に至るまでの想いを伝える。

<企画概要>

 公害の原点といわれる『水俣病』は公式確認から2006年で50年を迎えた。現在、水俣病としての救済を受けるためには、国が定めた認定基準を満たさなければならない。この認定基準が問題となるが行政は変えようとしない。このため新たな裁判も起こされ、公式確認から半世紀が過ぎる今も水俣病は混迷の中にある。
 現在、千葉で弁護士として活動している相良甲子彦氏(73歳)は、かつて、熊本地裁で起こされた『水俣病第3次訴訟』を担当した裁判長だった。この裁判は、行政から水俣病ではないと切り捨てられた被害者が起こした、水俣病史上初めて行政責任を問うものだった。相良の判決は、原告全員を水俣病と認定、行政の主張を切って捨てた。
 この節目の年に、相良がこの判決を下した想いを伝える。

<番組内容>

 公害の原点といわれる『水俣病』は公式確認から、2006年で50年を迎える。水俣病はチッソ水俣工場の排水中に含まれた有機水銀が魚介類を汚染、これを食べた人たちが冒された有機水銀中毒である。有機水銀被害者は不知火海沿岸に10万人以上ともいわれ、それぞれの症状に苦しんでいるが被害救済問題は決着していない。現在、水俣病としての救済を受けるためには、国が定めた認定基準を満たさなければならない。しかしこの行政認定基準が実態とはかけ離れていると被害者たちは批判、地裁や高裁に続き最高裁判所も行政よりも幅広い症状での水俣病を認めたが、行政は自らの認定基準を変えようとはせず、千人を超える原告たちの裁判が起こされている。公式確認から半世紀が過ぎる今も水俣病は混迷の中にある。
 こうした水俣病に対する行政の態度に、かつて厳しい判断を下した裁判長がいた。相良甲子彦氏(73歳)は、現在、千葉で弁護士として活動している。相良氏は昭和55年に熊本地裁に起こされた『水俣病第3次訴訟』を担当した裁判長だった。この裁判は、行政から水俣病ではないと切り捨てられた未認定患者が救済を求め起こしたもので、水俣病史上初めて国と熊本県の責任を追及した裁判だった。提訴当時、多くの学者は行政に勝ち目はないと見ていた。
 弁護団長の千場茂勝氏は言う「やりたくてやった裁判ではない、司法を無視する国の態度が提訴に踏み切らせた」。この裁判を担当することになるのが、東京高裁からきた相良氏だった。
 相良氏は京都大学法学部を卒業後、一旦、民間企業に就職したが翌年に退社、その後国家公務員上級試験に合格、東京法務局に在職中の昭和36年司法試験に合格、裁判官としての道を歩き出した。そして昭和59年熊本地裁に着任、国県の責任と水俣病とは何かを判断する裁判を担当した。担当してから1年後、裁判所は水俣の現地検証を行った。この中で3人の裁判官たちは、ある胎児性患者の家を訪ねた。相良氏はこの時の状況を鮮明に記憶していた。晴れ着を着せられた女性は27歳になっていたが言葉を持たず、それでもいつもと違う状況に無邪気に笑っていたという。相良氏は当時の模様をふり返り「こんなことをして、国・県はいいのだろうか、そう思いました」と涙をみせた。
 昭和62年3月30日、水俣病史上初めてとなる行政責任をめぐる判決が言い渡された。裁判所は行政に切り捨てられた原告全員を一人残らず水俣病であると認めた。そして当時、危機的な被害が広がっているにもかかわらず、工場排水の規制や漁獲禁止をとらなかった行政の責任を、明快に認め断罪した。相良氏は言う「人命とか健康とかに関しては、まず最優先に考えなくてはいけない。直接的に人命・健康を目的としていない法律でも、究極的、間接的には人命、健康を目的としてできている。そういう考え方が危機的な状況では大事」。
 原告弁護団の事務局長を務めた、弁護士の板井優氏は相良判決について「行政が誤っていたときに司法がどうとがめることができるのか、相良判決は行政に対する司法の役割を正面からきっちりと果たした」と評価する。相良判決は原告の訴えを全て認め、行政の主張を切って捨てた。原告の完全な勝訴だった。相良氏は判決から2日後、次の勤務地の岡山に去った。希望していた関東の裁判所ではなかった。左遷という声もささやかれた。相良氏は言う「裁判官というのは孤独な職業、最後は誰にも相談できず、自分で切り開いていかなければいけない。最終的にその人間性に行き着く。そして胆力を持っていなければいけない」。相良氏は退官するまで、国のお膝元である東京の裁判所に戻ることはなかった。

<ディレクター・本田裕茂コメント>

 混迷が続く水俣病事件は今年、公式確認から50年の節目を迎えた。しかし半世紀がすぎるにもかかわらず、被害者の救済問題は解決していない。国と熊本県の責任を認め、行政より幅広い水俣病の基準を示した最高裁判決以降、新たな水俣病認定申請者は3,700人に達しているが、行政の認定審査会は機能停止状態に陥ったまま。認定基準の見直しの声にも、耳を傾けようとしない。このため被害者たちは司法に救済を求め、1,000人を超える被害者が裁判を起こした。かつて行政を断罪した相良氏はどう見ているのか? 原告全面勝訴判決を下した裁判長の思いは一貫していた。「何のための行政か」。番組あてに送られた手紙にも、その強い思いがつづられてあった。敢然と行政断罪の判決を下した、ある裁判長の思いと判断を記録として残したい。初めて会った時にそう思った。


<番組概要>

 ◆番組タイトル 第15回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『断罪の核心〜元裁判長が語る水俣病事件〜』(制作:テレビ熊本)
 ◆放送日時 2006年9月1日(金)深夜3時55分〜4時50分放送
 ◆スタッフ
ナレーター 外山誠二(文学座)
脚本 香月 隆
構成 川口 忍
倉岡英二
選曲 柿田泰之
MA 森 仁
編集 川口 忍
企画・構成 本田裕茂
プロデューサー 丁 善徳
制作 テレビ熊本

2006年8月28日発行「パブペパNo.06-283」 フジテレビ広報部