2.は三線ウクレレとギターの写真ジャケットに引きつけられて買ったが,これが当たった.
オキナワン・ハワイアン・カリビアン・メローミュージックとでも言おうか.1曲目の34分版のメドレーには×○×○.
3.随分前にハマってたアルバムだけど,なくしてしまって困ってたらTOWERでみつけた.またしばらくはまりそう.
4.神戸のイベント(長田神社)はとってもあったかかった.
ソウルフラワーも,山口君もみんなよかった.泣いていた人も有.ライブ終盤のカチューシャ大会には思わず参加.とても寒い日だったけど,心はあたたか.
日本人の中川が日本語のコブシのきいたうたをうたうときのボーカルはうれしそう.ロックをうたうときよりも開放されるのか.やっぱり血なのかなぁ.
5.はおすすめ.他にもBMG(DANCING CAT)からスラック・キーが山ほど聞けるシリーズはたくさんでてる.
僕はギター奏法で一番好きなのがスラック・キー.ブルーズ・ギターよりも気持ちいい.スラック・キーとはキー(弦)をゆるめるという意味です.
PEACE (^_^)
「全部、一緒だ!」と最近よく思う。
こないだ昔昔大昔に買ったパンクの写真集を見ていた・・・「やっぱパンクってすごかったんだなぁ」と思ってしまった・・・うかつにも・・・その後、5秒間立ち止まって考えていたら、絶対買うことはなかっただろうなぁ、と思われる一連のパンクのレコードを聴き漁った。聴きながらウォーホルの写真集や佐伯俊男の写真集を見ていたら、全部パンクだった。「やっぱパンクってすごいや!」と思ってしまった・・・うかつにも・・・パンクはその後に出てきた全ての産物に許可を与えた!
もっと言うならば、それ以前の居場所のなかった産物たちにも許可を与えた!だから今、やりにくくなっているのも事実なんだけれども・・・
モノを表現する上でそのジャンルがなんであれ、そう大差はない。その人の中に確固たる見せびらかしたいものがあるならば、そのジャンルが音楽であれ、写真であれ、映像であれ、文章であれ、絵であれ、ダンスであれ、ファッションであれ、大差はない。そのイメージを最も原始的に具現化する術は音を鳴らすことと踊るというパフォーマンスだし、その踊りの形態を原始的な方法で、一枚の紙に納める術が絵画だし、もっと進んで、その形態を人工的な方法で、一枚の紙に納める術が写真だし、それに動きをつけたものが映像だ。今や、映像も写真もその上をなんらかの絵画的な手法で加工することに躍起になっている。皆ありのままの状態では満足しない。作り手も受け手も・・・写真にペイントするタブーを正面きってアートだと言い切ったのはウォーホルだ。彼もパンクに許可を与えられた一人だ。
モノを表現する上でそのジャンルがなんであれ、そう大差はない。「全部、一緒だ!」同じ人間が音楽というモノと、映像というモノと、ファッションというモノを一度に表現しようとしたら、それは間違いなく同じモノになる。だから、性格の出ていない写真や映像やファッションは絶対に嘘だし性格を出せない人間にモノを表現する資格はない。資格はない、なんて高尚な言い方よりも、意味がない、と言った方が適切だ。
「坂本龍一を呼んだ」倉本さんのLIVEには、なぜだかミッキー・カーチスが来ていた。そもそもがロカビリアンな僕は、気になって仕方がなく、倉本さんに聞いてみた。
「ミッキーさん、俺らのこと気に入ってくれてんねん。だからマジでオモロイことなるかも知れへんねん。」今まで僕らには絶対に見せたことがないような無邪気な顔して倉本さんはそう答えた。その笑顔には、とっても勇気づけられた。よく、「どっちが本職かわからない」というような言葉を耳にする。その疑問に明確な回答を与えるならば、「金になってる方が本職だ」というより他、仕方がない。そもそも本職なんてものはない。たまたま、どちらかが事の成り行きで「金になっている」だけだ。
モノを表現したい、と言うよりは、「俺を見せびらかしたい!」という欲求を持った人間は皆、何らかの形で世の中にアピールする。倉本さんにはたまたまそれが、音楽というフィルターと、文章というフィルターだったにすぎない。そのどちらからも同じニオイがしていた。
1996/01/25 from POCCA