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FACTORY721 CS0027 :
SOUL FLOWER UNION インタビュー - 幾千のがれきの町に立つ

オリジナル | 幾千里のがれきの町に立つ | 海行かば 山行かば風が唄にたゆたう物語


中川
いや,結構揺れてね.で,ちょっとそれまで経験したことの無いような揺れで.はじめ,どこが震源地でなんてそんなこと分からなかったんだけど.で町中停電になったしね,うちの町も.一時間ぐらい経ってテレビで神戸だと言うことが分かって,テレビ点けてて.でも最初の頃はどういう状態かよく分からなかったんだよね.どうもすごいことが起こってるぞっていう感じやってんけど.でも自分もずっと興奮状態で,それから三日間ぐらいずっとテレビ点けてるみたいな状態になって,どんどんどんどんひどいことになっていくよね,なんかね.そんな中で若い子らが早かったやん,動くのがね.動いた連中はすごく早くて被災地にどんどん行って,いろんなことやってるっていうのを見てて,「自分らってなんかでけへんのかな」と….ま,特に職業として音楽をやってるね人間がこういうときに何が出来るんやろなと,初めて考えたね,あのとき.
あるときヒデボウ(伊丹英子)がね,「私ちょっとじいさん,ばあさんと一緒に民謡唄ったりとか,そういうことしに行こうと思ってんねけど,行かへん?」みたいなことをね言い出して.ちょうど震災から一週間ぐらい経った頃.
伊丹
伊丹英子家が開業医で,田舎の.もう町医者ってかんじの.もう両親は二人だけで仕事していて,もう毎日毎日24時間体制で仕事している状況やったんで,小っさい時からいろんな人に預けられたんね.地域でかわいがってもらって,家にいつも一人暮らしのおじいさんとかお父さんとか連れて来ちゃって,往診行ったまま.で,家にいつも年寄りが居るっていうことが多くて.やっぱりその…地域の人に,地域のおじいちゃん,おばあちゃんに育てられたって意識がすごい私にはあって.
そういうおじいちゃん,おばあちゃんがああいう大きな震災があったときにどういう行動を取るかっていうことがすごいわたしには分かってんね.邪魔になると思って避難所に行けない人であるとか,家からやっぱり離れられなくて崩れた家の中にいる人とか,きっといるやろと思って.なんか引きずり出したいな,というか.それと娯楽が無くなって,子供とか若い人はすぐに娯楽とか見つけられるけど,やっぱり年寄りはどうしても見つけにくい.気持ちも沈んじゃうってとこで,年寄り向けに私らが何か出来ること無いかなって思って.
中川
行くということが決まってからは,ヒデボウはいろんなボランティア団体とかに電話とかしまくってね.私ら,こうでこうでこうと,民謡とかそういうのもできると,だからじいさん,ばあさんがね,退屈してるとか,避難所で娯楽が必要やとか,そういう状況になったら連絡ください,みたいなことをね,いろんなボランティア団体に彼女がふりはじめてね.その間にオレと奥野と河村は選曲をしていって.もう三線を引きながら唄うなんてそれまではそんなにやったことなかったからね,遊びでしか.練習を始めたね,同時にね.
伊丹
こう不謹慎かもしれんけど「向こうに行ったら楽しいことがある」って私は思ってて.で,やっぱりメンバに話したときに,メンバは「今,そんなことやったら怒られるんじゃないか」って.まあ当然のことやと思うけど.でもやっぱりどうしてもそういう大きい災害が起こった時っていうのは,こう,“笑う”とか“泣く”とか“怒る”っていう感情すら忘れてしまうってことが多いと思うから,「怒られてもいいやん」って感じで,ぜんぜんそんな気負ってなかったですね.「行こ,行こ」って感じで.
河村
尼崎から西宮,西宮から越えて,どんどんね,周りの景色が変わっていくんですよ.最初はちょっとブルーのシートが目立つだけとか,あとちょっと崩れてるな,ぐらいなのに,もう…想像を絶する景観っていうか.
奥野
着いたところがちょうど学校が避難所になっているところやったんで.そこがまた消毒液のにおいですごく蔓延してて.みんなもすごくナーバスな感じでね,ぴりぴりとした雰囲気があって.「こんなとこで音楽,演奏を奏でていいもんなんだろうか」って,みんな多分そう感じたと思うねんけど.でもそのとき向こうで関わってたボランティアの子とかがバァーって作ってくれて.そこでまあ…もう今となってはね,それが僕らにとっていい演奏だったのか分からへんねんけど,ただ自分がここまで「音楽をやってて良かったな,楽器を弾けて良かったな」って感じたことはなかったぐらい,聴いてくれてる人のなんか顔が飛び込んできたっすよね.
河村
河村博司沖縄の民謡の本土でも流行ったっていう昔の歌を演奏したら,歌の途中で「さーゆーゆい」っていう掛け合いみたいなところがあるんですけど,そこで大合唱になったんですよね.そん時にすごいほっとして,演奏しながら泣きそうになったんですけど.
中川
みんな喜んでくれてね.もうみんな生活大変なはずなのにね,「これとって行け」って万札を出す任侠のおっちゃんがおったりとかね.なんかね,こっちが本当にパワー貰いに行ってるっていう感じやったけどね.「なんでみんなこんなに元気なんやろうな」って.「オレの方が人生疲れてんのと違うかな」ってね.何か本当に「唄わしてくれる」って感じ.そんなじいさん,ばあさんから子供までね,目の前1mのところにおってね,手拍子してるって所でね歌唄うなんてね,しかも相手は俺らのことを知らない,認知されていないっていう,そういう匿名性の世界の中でね,音楽やるっていうのはオレにとっては裸で立つっていう感じやってんね.もう「裸で立つ」=ごまかしが出来ない.なんやろ,スリルあったんちゃう.すごい試されてる感じしたよ,なんか.歌を唄うことが何か考えざるを得ないっていうか,うん.
伊丹
楽器もそうやしね.私が使っているのは勧告の太鼓で“チャンゴ”ってやつなんやけど.それも見たことはあっても触ったこともなかって.ちょうど「アリラン」って曲を演ってるときに,「ここに私のチャンゴがあったらなぁ.震災で潰れちゃってんや」って口々におばちゃんらが,オモニが言ってて.「じゃあ,私が買ってくるから教えてや」って形で.で,買ってきて,次の日に.「さあ,教えろ」ってそんな感じ.「そんな叩き方あかんでぇ」って.でも地区によって全然違うからうそばっかりやねんね.うそっていうか,「私のチャンゴは淀川で拾ったチャンゴやねんから,私風にやるねん」って感じで.みんな文句言いながらその音が聞こえたらもう手が上がっちゃうっていう状態で. ああいう踊りながら叩くっていうのは子供がすごく喜ぶねんね.おばあちゃんもすごく喜んで,おばあちゃんが喜ぶ顔見たら子供もすごく楽しくなったり.なんかやっぱり私は,「私から発信する」っていうより,「どうやったら喜んでもらえるか」ってことがすごく勉強になったと思う.私って存在が,やっぱロックって自分から「私を見ろ」っていう.個人的なパワーってすごくいいパワーやけど,まったく逆のパワーやねんね.「みんながどんなものを聴きたいんか?」,「どうやったら笑ってくれるんか?」.私の存在は無いねんね.で,音楽っていう接続詞をもって歩いてるっていうか,うん. おじいちゃん,おばあちゃんが泣き出した人が何人かいててんね,「かごの鳥」って曲とかやってて.「ああ,こんな暗い曲演ったから泣いちゃった」ぐらいな気持ちでいててんけど.でもよく観察してるとそうじゃなくて,みんなそういう個人個人が家の中におったのが何千人と避難所に集められて,やっぱりこう「みんなもそうなんやから,自分も我慢せな,我慢せな」ってね,たとえば身内が死んだ人でも,家が潰れた人でも,みんなが我慢しててんね.それが「いや,懐かしいわ,この歌.久しぶりに聴いたわ」って歌のせいにして泣けるっていう場面があって.「ああ音楽って強いな」ってそのとき思ったけどね.
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